行程の作成は、愚息に任せ、切符の手配を「えきねっと」で事前予約して・・・。しかし、あろう事か、「おばあちゃんと乗りに行く!」と、衝撃の発言が待っていたのであった。「えっ、またなんだ。」と、おばあちゃん子らしい一面を見せられるも、何故だか、父子で一緒に行く事を諦めるしかなかったのが悲しい。
その列車とは、「風っこ」号。父子して、様々な所に行っているが、何故だか、「風っこ」号だけは、おばあちゃん(小生の母)がご指名なのだ・・・。
直近では、左沢線での「さくらんぼ風っこ」号や、石巻線での「石巻線開通110周年」号として運転された際にも乗っている。左沢線では、ここ毎年乗っていた様な気がするのだが。そして、2月に磐越西線・郡山−喜多方間で運転するとか。冬の会津路かぁ、同じ雪国であるが、土地柄の風情や歴史に想いを寄せる小生であるだけに、久し振りに訪ねてみたいと言う思いもあったのだが。
2月12日に運転する「風っこストーブ 喜多方」号の事前予約をし、運よく往復での確保が出来た。それを踏まえて、愚息の作成した行程表は、朝早く出掛けなくてはならないし、帰りは遅くなりそうな、ましてや、おばあちゃんと二人連れ。鉄道趣味を理解してくれている「鉄祖母」あらため「鉄婆」は、寄る年波には勝てず、口は達者でも、歩いて移動する時は楽ではない。「おばあちゃんは、長く歩く事や、階段の上り下りが辛い時があるんだけど。」と、心配する小生であったが、愚息は、「時間に余裕を持っているから、大丈夫。」とあっさりと言うのだった。まぁ、駅のバリアフリー化も進んでいるし、無理しない程度にしてくれるのであれば、それなりに、負担は少なく楽しんで来れるのであろう。
という事で、乗れない小生は、撮影にだけでも行きたいけど、一人で出掛けるのもつまらない。そこで、小生が鉄道趣味をする上で、寛大な心で理解をしている、いや、諦めているのであろう鉄妻であるカミさんを、「喜多方ラーメンば、かしぇっから。あべ。」と、日頃の悪行の罪滅ぼしと気分転換を兼ねた、喜多方までのドライブに誘ったのである。
この冬も、大雪による列車の運休が、出発日の2日前にも山形新幹線の運休があったので、予定通りに出掛けられるのか心配になった。それが嘘だった様に、落ち着いた青空となった前日。そして、銀色の「つばさ」号が復活運転を開始したので、ちゃっかり撮影にも出掛けた父子(「ミスターNゲージさんの画像・45」を参照)。
迎えた当日の朝は、まだ明けきらぬ空を見て、山形新幹線の上り1番列車「つばさ」122号に乗る愚息と鉄婆を山形駅まで送る。我が家に戻り、わらわらと朝食を済ませ、すっかり明るくなった7時20分に、カミさんを隣に乗せて出発。
我が家の近くには、「東北中央自動車道」の「山形中央インターチェンジ(IC)」があり、用向きによっては、よく利用している。ただ、「山形上山IC」以南が福島まで高速道路一本で行ける様になっていた事もありながら、南行きは利用する事もないままでいた。高畠町以南に行く用事が、これと言ってなかったので、利用する機会もなかったのだ。このドライブなのか撮り方も、急ぐ道中でもないはずなのだが、物は試しにと「山形中央IC」の料金所を潜ったのである。
高速道は、米沢側に進路を取り、我が町内を二分するかの様に貫き、山形市南西部を行く。しばらくして、線路が見えてくる。奥羽本線(山形新幹線)と交差して、「山形上山IC」へ。そこから、上山市東部を貫く未知の道路へと。高層マンションが見えてきて、まもなく「かみのやま温泉IC」だ。ここから、撮影ポイントである石曾根の跨線橋も近い。ここまでの所要時間が半分ほどと、20分近い短縮であった。その先は、街からも線路からも離れて、何処の山を突き進んでいるのやら。若干、不安もありながら、拓けた土地に出た。「南陽高畠IC」からは、米沢南陽道路として供用されていた区間へ。そして、「米沢北IC」で、高速道を降りる。山形と違って、やはり米沢だからか雪が多く積もっている。
市街地に繋がる道路も整備されているが、市中心部に行かずに西部へと進み、見覚えのある施設に、今いる場所の見当を着けながら、国道121号線を進む。どこの地方でも見掛ける様な、チェーン店が並ぶ様子を見ながら、米坂線と交差する跨線橋を、「成島」駅付近を、我が家から1時間足らずで通過した。以前であれば、米沢市内まで1時間20分は掛かっていたかと思うと、なんと便利になった事か。鉄道ならば、奥羽本線で「米沢」駅から米坂線に乗り換えて、接続待ちを考えるとなると。自動車での移動が、便利になればなるほど、鉄道利用が減ってしまうのが、当たり前な気がした。もし、鉄道路線が無くなってしまったならば、生活の足を失う事になり、困る方々もいるのも事実である。
121号線(大峠道路)で、ひたすら喜多方方面へと進む。除雪が行き届いているのか、快適に進める事が嬉しい。県境を越えるこの道。その昔、米沢(米坂線・西米沢)駅と喜多方駅を繋ぐ鉄道路線の建設計画(改正鉄道敷設法別表第26号に規定する予定線「山形県米沢より福島県喜多方に至る鉄道」で、日光線・野岩線(現:野岩鉄道)・会津線(現:会津鉄道)と結んで東北地方南部を縦貫する野岩羽線の一部として計画)があった事を、カミさんに話したが、軽くあしらわれた気がした。
道中、たしか、その一部区間として磐越西線喜多方駅から、分岐し建設された日中線(昭和59(1984)年4月1日廃止)の熱塩駅が、記念館として佇んでいるはずなのだが、どうした事か、街なみも変わっているし、見当たらない。むしろ人家がない。道を間違えたつもりもなく、カーナビに従っての運転でもあり、後で気付く事になるのだが、どうやら、ある場所から脇道に出なければ、旧駅前通りには行けない様だった。という訳で、線路跡も見る事もないまま、道の駅「喜多の郷」を、9時前に通過。予定時間よりも、大幅に早かったので、このまま、撮影場所に向かったところで、特にする事もなさそうだ。とりあえず、見当を着けていた撮影場所の状況を確認しながら、会津若松市内へ向かう。
「風っこ」号の各駅での到着時刻を頭に入れながら、同市のシンボルでもあり、幕末には戊辰戦争の激戦地となった場所(【ぶらり父子の旅‘19夏】を参照)でもある「鶴ヶ城」の別名を持つ「会津若松城」、その城跡の「鶴ヶ城公園」をちょっとばかり散策。人気の少ない朝は、カミさん共々、ゆっくり眺められて良かったと思う。ただ、10時前とあり、城前のお店は開店前だった。
会津若松城。
「鶴ヶ城」を後に、最初の撮影場所を目指す。場所探しに、なんだかんだと、変なこだわりを見せる小生に、「いろんな所を見られて、楽しい。」とは言っていながら、内心、きっと呆れているはずだろう・・・。
そんな頃、愚息達は、「風っこ」号に乗り、もう郡山駅を出発したはず。
「風っこ」号(手前)とE721系(奥)。郡山駅にて。
撮影するにあたり、雪深いであろう風景を思い描いて出掛けて来たのであったが、よもやの雪解けで早春な風景が広がり、構想とは違った写真になってしまうが、仕方がない。
会津観音と磐梯山の見える場所で、「風っこ」号を待つ。
カミさんは、農道を散歩しながら、小さな花やフキノトウが芽を出しているのを見つけて、嬉しそうに教えてくれた。一足早く春を見つけたカミさんは、本当に楽しかったのね。
「風っこ」号に乗った愚息達は、車窓から、澄んだ空気と青空に、雪を被った磐梯山が間近に見られ、雪景色を満喫したそうだ。そう言えば、進行方向右側に乗っていたはずだが、冬姿のために、窓がはめ込まれていたので、通過した時には、こちらからは、姿を見つける事が出来なかったが、愚息は、撮影している小生を見つけたそうだ。
車中から磐梯山を望む。
会津の早春賦。広田−会津若松間。
「風っこ」号は、「会津若松」駅で、しばらく停車し、向きを変えて、「喜多方」駅へと向かう。その停車時間と磐越西線の線形を活かして、撮影場所の移動をする。直線ではあるのだが、この時期での時間帯としては、正面が影になりそうなのであった。もう少し、場所を変えてみようかも考えたが、無理して、列車を逃すよりは、露出を変えれば、何とかなりそうな気がして撮影した。案の定、後追いの方が、きれいに撮影出来たのであった。
後追い。姥堂−塩川間。
とりあえず、下りの撮影は終わったし、約束していた喜多方ラーメンを食べようと、喜多方市内に車を走らせた。どこのラーメン屋さんが良いのか、見当つく訳がないまま、市内と言うより、「喜多方」駅に向かってしまうのは、悪い習性なのだろうか。駅舎内に、観光案内所があるし、あわよくば「風っこ」号を見れるかもしれない。後者の想いが強かったりして。
「喜多方」駅前の駐車場に車を止める。駅前には、列車から降りて来た様な方々の姿も。まだ、駅には、「風っこ」号が止まっている。愚息は、鉄婆を待たせて車両観察でもしているのだろうか。小生夫婦は、観光案内所で、ラーメン屋さんと2時間程度の散策コースを聞いて、歩いて駅を後にした。
駅前にあるラーメン屋さん。喜多方に寄れば、ここの店に入る事が多いのだが、場所と時間帯もあり行列が出来ていた。別のラーメン屋さんを探しながら、散策を楽しむ事にした。もらった観光マップを広げながら、気ままに歩くのも悪くない。「蔵のまち 喜多方」なので、車で移動していれば、ついつい蔵ばかりに目が行きがちで、見過ごしてしまいそうな場所や店を、歩きならば、気軽に寄っては覗けるのだから。漆器店などを冷かしながら、商店街の方へ歩く。どこも同じなのか、日曜日でシャッターが閉まっている店が多い。もっとも、観光客相手ではない店なのかもしれないが。「ラーメン神社」と言うのを見つけた。ご利益が何なのかは解らなかったが、道中の安全だけは、祈願したい所ではありそうだった。
歩いてばかりでは、お腹が空き過ぎてしまう。「老麺会」に入っているお店であれば、間違いないだろうと、匂いに誘われて辿り着いたのは、小道に入った所にあった古い感じのラーメン屋さんなのであった。ラーメンと言えば、みそ味を好む小生なのだが、この店には、あいにく、しょうゆ味と塩味しかなく、二人仲良くしょうゆ味を注文した。太麺でコシがあり、どこか懐かしい味のするスープに、お腹ばかりか心までもが満たされた。
駅前に戻り、日中線の線路跡を探してみる。喜多方駅構内からの分岐点は、解らなかったけれど、線路跡の一部は、サイクリングロードになっている様だ。沿道には、しだれ桜の木が並んでもいたので、廃線探訪を兼ねて、花咲く頃にまた来てみたいものだ。
喜多方駅。
約束の喜多方ラーメン。
そう言えば、愚息達は、「喜多方」駅から、また乗るはずなのだが、駅にはいなかった。どうしたのだろう。鉄婆の様子から、あまりうろつき回る事は考え難いし。
心配するより、信じる事にして、次の撮影場所へと車を走らせる。ただ、午前中より天気が悪くなって来ていたので、それも悩みの種となった。時間には余裕はありそうなので、思い切って、磐梯山を背景に出来る「川桁」駅付近まで行こうか。そうすると、ただただ車での移動が長いばかりで、カミさんを疲れさせるだけになるし。手頃な場所をと、再び、会津若松市内へと戻る。
そんな中、愚息達は、「風っこ」号を降りた後、駅前の件のラーメン屋さんに入り、ラーメンを食べたらしい。そして、目敏く時刻表で見つけていた列車に乗って、「会津若松」駅に行っていたそうだ。その見つけた列車とは、会津鉄道からの乗り入れ列車。JRの車両ではなくて、会津鉄道の車両AT-700型に乗りたいばかりに、喜多方にいなかったのだ。「ホリデーパス」を有効活用した愚息なのであった。一緒にいた鉄婆としても、ゆったりした座席に座って車窓を眺められたのも良かったのかは、聞いていない。
「会津若松」駅で、乗り入れしている車両と駅の観察やお土産を買って、「喜多方」駅に戻って来たそうだ。どことなく予感はしていたのだけど・・・。
会津鉄道AT-700型。喜多方駅にて。
AT-700型(左)と「風っこ」号。会津若松駅にて。
そして、「喜多方」駅から、「風っこ」号に再び乗りながら、やってみたかった事があったそうだ。車内のだるまストーブで、するめを炙って食べたと嬉しそうだった。
ストーブ暖かく。
寄り道しながら、午前中に探した場所も考えたが、進行方向は逆になるので、そこは避けた方がと、撮影場所を迷っているうちに、「風っこ」号の通過予定時間が迫って来ている。
線路沿いに、広い駐車場とその前にある石鳥居を見つけた。鳥居や祠を入れるのも面白いかもと、そこに行ってみる。しかし、近くで見れば、周りが暗いし、解り辛そう。結局、踏切脇から、差し障りのない構図で撮影した。まだ春遠くと言った感じとなった。
これで、列車の撮影は終了。まだ、帰るのには、早い気もする。なにせ、愚息達の帰りは、仙山線廻りで、22時半は過ぎる事になっている。「ばんっあど、んぐなだべ。なして、つばささ乗って、ちゃっちゃど、帰ってくる気ねんなだがず。」と、父子で揉めたのだが。
まだ春遠く。広田−会津若松間。
「どこか、もう一つくらい見たいよね。」と言うカミさん。ならばと、小生が、候補を挙げた中から、「御薬園(おやくえん)」を選んだ。代々会津藩主の別荘地として、また、疫病から領民を救い、病気の予防や治療などに使用する、薬草の研究のために設けた場所である。静寂に癒され、住宅街の中にいる事を忘れさせてくれる庭園。季節ごとに咲く花々の彩(いろどり)や、木々が雪をまとう白銀の景色が楽しめる。
ここにも、幕末の戊辰戦争の痕跡を見る事が出来る。庭園中ほどにあり、藩主の茶室として使用された「楽寿亭」の縁側の柱には、深い刀傷が残っている。
この「御薬園」は、戊辰戦争の際、西軍傷病者の治療所に使用され、戦火をまぬがれ、当時の佇まいと戦争の激しさを見る事が出来る。
のんびり庭園を散策し、お土産売り場で、絵ろうそくや赤べこなどの民芸品を見ながら、会津地方の文化を、店員さんから教えて頂いた。たくさんの素敵な絵ろうそくの中から、迷った挙句、赤べこの描かれた物を購入したのだった。
そして、帰路に着くのだが、まだ16時前なのだ。でも、山形入りする頃には、すっかり暗くなっているだろうから、まずは、焦らないで運転しよう。
御薬園。
来た道を戻るだけなのだが、道路標識の「米沢 喜多方」を示す方に進んでいたら、新しい知らない道に進み、高規格道路の「会津縦貫北道路(国道121号線の一部)」に入ったらしい。磐越西線が、眼下に近くを通っている様だ。しばらくして出口の「喜多方IC」を抜けた。そう言えば、朝、高速道路の入り口かなと思って通過した所に出た様だ。
ここからは、素直に来た道を戻るだけ。峠越えを前に休憩のため、閉店近い16時半頃、道の駅「喜多の郷」に立ち寄る。その後は、山形までノンストップ運転で、18時半の到着を見込んだ。安全運転してはいるが、暗くなった道、峠越えは、いくらカミさんが隣にいても心細くなるものだ。米沢の街の灯りが見えて、安堵したのは言うまでもない。山形まで順調に進み、若干見込みより早めに入る。某とんかつ店で夕食を摂り、19時半前には我が家に着いた。
愚息と鉄婆は、たくさんの会津土産を持って、予定通りに、山形駅からタクシーで帰って来た。
福島駅から仙台駅へ。
結局のところ、鉄道だの幕末だのと、小生の屈折した趣味に、カミさんを付き合わせてしまったのかもしれないのであった。また、愚息は愚息で、おばあちゃんをだしにした様な、それでいて、思いやりと好奇心を持ちながら、冬の列車旅をしたのだった。
何はともあれ、カミさんとおばあちゃんは、気分転換にもなったし、小生と愚息は、「風っこ」号を楽しみ、鉄分補給が出来た一日であった事は間違いないのである。
鉄道友の会山形支部・支部報 気動車急行「出羽」令和5年春号 より:都合により、写真の一部差し替えと加筆をしています。
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