2024年11月18日

【ぶらり父子の旅‘24夏】

 こうも暑い日が続くと、どこか疲れが溜まってしまっている小生。良くも悪くも、本業も趣味も、天候に左右されやすいものだから、思う通りに事が進まない時が、多々あるのだが、炎天下では、どこか涼しいところで、のんびり体を休めたいと、半ば現実逃避してしまいたい気分にもなっていた。そう言っても、稼がねばならないし、撮影もしておきたいし。暑さのせいか、よくわからない・・・。

 左沢線で「SATONO」が運転されたのを撮影し終えて、E8系が営業運転に入ったし、今年の「関根の紅花」を撮影しようか迷っていた7月初め。小生の少年時代から憧れの人である鉄道写真家の南正時(みなみ まさとき)先生から、その関根の紅花畑での撮影を一緒しないかと、お誘いを戴いた。約束した某日、先生は、朝露に濡れる紅花を撮影したくて、前泊していたが、小生の都合で、お昼前からご一緒する事になり、夕方までではあったが、場所の移動もありつつ、先生のお人柄や撮影の拘りに触れ、小生自身の撮影技量に新たな気付きがあった。空の下に咲く紅花を撮影して満足した小生であったが、静かに流れる時間と、雲の流れと共に変わる空気感に、より撮影の奥深さを感じさせられた。まだまだ道半ばなのである。夕方近く、少し陰った空の下での紅花とE8系は、なんだか、紅花が映える良さげな感じであった。先生もお気に入りだったそうだ。
 撮影の合間に、いろんな話をさせて頂きながら、愚息も、同じ鉄道趣味人である事を話ししたら、先生の作品展を開催している「鉄道博物館(鉄博:てっぱく)」の招待状を「夏休みにでも、親子して作品展にお出で。」と、後日、二人分を送って戴いた。ご厚意に、感謝感激である。

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 夕時の紅花。(撮影:6.7.13)

 毎夏恒例の、父子旅に出掛けるにあたり、この春から、社会人となった愚息は、今までの様な長い夏休みは取れないので、我が家の予定と擦り合わせながら、まずは、日程を決めた。「行かない。」とか、「別行動する。」とか言われなかったので、一安心ではあった。
 今年の行程は、「水郡線」や「常磐線の未乗区間」と愚息は言うのかなと思ってもいたが、「鉄博」の招待状を戴いていたので、小生自身、前々から、鉄博での南先生の作品展を見たかったし、400系新幹線の雄姿も見たいし、愚息も、古い車両に関心があったので、まずは、「鉄博」は決まった。その後は、どうするのか、愚息の意のままにさせ、決めた行先は「日光線」。まぁ、いいんだけど、その選考基準って、何なのだろう。乗った事のない路線ではあるのだが、ちょっと地味かも。話しを聞けば、一人で出掛けて乗った「相模線」や「鶴見線」で運転されている「E131系」シリーズの車両(600番台)が運転されているので行ってみたいとか。乗るのが主目的な愚息だが、行くのならば、撮影はとか、観光しないのとか、つい、時刻表を一緒に読みながら、余計な心配をしてしまった父である小生。
 出来た行程は、あまりにもあっさりとしたものとなった。欲張らずのんびりしたとも言えそうだ。乗り継ぎ旅より、どこかでじっくり過ごす旅も楽しいし。とりあえず、出発日を8月13日(火)として、鉄博の開館時間前までに着ける様にして、「えきねっと」から、往復の「新幹線特急券」を手配した。今回の乗車券は、通常の乗車券のみを利用するのだが、「山形−大宮」間の往復に、「日光線」を利用するとなれば、「宇都宮−日光」間の往復もとなるのだろうが、日光線での途中下車(下車駅未定)も考えたので、帰りを、「大宮−日光」「日光−山形」の二枚で発券した。お値段的には、「大宮−山形」と「宇都宮−日光」往復で発券した方が、缶ビール1本分くらい安かったのであったが・・・。
 出発日までの間、日光線内での走行写真をどこで撮影しようかと、時刻表で交換列車を調べたり、地図を広げたり、撮影地を探してみた。有名な所は、残念ながら、地理的にも不慣れで、時間的に無理がありそうなので、駅から、さほど遠くない場所を探した。

 お盆休み真っ只中の13日。
 鉄博の開館前までに着ければとなったので、早起きする事なく、山形駅入り。山形新幹線ホーム2番線には、「銀色のつばさ」号が、新庄行きの171号として停まっている。程無くして、1番線に、E8系が、東京行きの124号として入って来た。この並びを撮影したのだが、停車位置やホームの構造上、意外と綺麗には撮影出来ないものだ。何とか収める事は出来た。

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 銀色の「つばさ」号とE8系。

 E8系の東京行き124号は最速列車、いよいよ出発だ。紅花色の座席に身を沈め、しばらく車窓から夏の風景を眺める。この春までの3年間、列車通学をしていた愚息は、何を思いながら車窓を眺めているのだろうか。これからは、非日常の世界へと繋ぎ、新しい発見や出会いが待っている線路に、静かに胸を弾ませているのかもしれない。同じ線路(区間)を、はるか昔に、辿った父である。

 朝食に駅弁では多いかなと購入したおにぎりを食べる。駅弁「どまんなか弁当」風のおにぎりは、ご飯にタレが沁み込んでいるので、弁当より味が濃い。具として、牛肉が入っていた。そこは、物足りなかったけれど、所詮、おにぎりなので、ご愛敬かと。そして、車内販売が回って来たので、お決まりの如く、呼び止める。そして、「シンカンセンスゴイカタイアイス」の「バニラ」味を選んだ。

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 普通車の座席は紅花色。

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 駅弁風のおにぎり。

 ゆったり過ごしながら夏の山形路を南下し、いつしか、板谷峠を登っている。相変わらず新幹線とは名ばかりのゆっくりした速度ではあるが、そこから見える山あいの景色や鉄道遺構となったスイッチバック跡を見ながら、先人達の想いに寄り添ってみた。改軌前の様子を、どこか懐かしく想えたが、愚息にしてみれば、生まれる遥か以前の事。
 峠を降りて、大きくカーブし、開けた風景が見えた事で、福島県に入った事を知る。東北新幹線へのアプローチ線を進みながら、その向こうに、絶賛工事中の上りアプローチ線が見え、本線側では、福島駅11番線への線路取付工事の様子も見えた。福島駅に到着して、先着の「やまびこ」124号と連結。待っていた「やまびこ」号は、E5系なので、如何にも速そうなコンビみたいだ。
福島駅を出発した「つばさ」124号は、新幹線車両の本領発揮とばかりに、板谷峠での鈍足ぶりが、なかった事の様に、速度を上げている。そう、福島を出ると大宮まで停まらず、途中、最高時速300qで運転するらしい。ぐんぐん速度を上げて、次駅の郡山駅を掠める様に通過した。まだまだ速度を上げ続け、新白河駅を通過してまもなく、時速308Kmが出ているのを確認した。
思ったほどの揺れもないのは、全ての車両に、横揺れを打ち消す方向の力をあえて発生させて横揺れを低減する「フルアクティブサスペンション」を搭載してるからだとか。なるほど、乗り心地は良い訳だ。
乗り心地ばかりに気が行ってしまい、車窓を楽しんでいたのか、よく解らないまま、上越新幹線の高架が近付き、大きな工場の屋根が見えて、まもなく大宮駅に到着。
 乗って来た「つばさ」124号を見送り、まもなくやって来たE7系「とき」306号を撮影してから、ちょっと駅前(西口)の様子を見るために、大宮駅の改札を出る。

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 アプリに、時速308Kmを表示。

 このまま、「鉄道のまち・大宮」を散策しながら、鉄博まで、歩いてみようかと、愚息に聞いてみた。案の定、「ニューシャトルに乗る。」と、即答された。まぁ当然と言えば当然の返事なのだが。乗りたかったニューシャトルだったし。乗り場へ向かう。駅ビルのテナントは、まだ、9時半頃とあってか、シャッターが閉まっていたが、辺りを見渡せば、鉄博へ誘うイラストが多く、心躍らせてしまった。
 ニューシャトルの乗り場へ。乗り場は、1面のみ。しかも、JR線に対して、垂直になっっている。軌道を見渡せば、鉄のレールはない。そして、ホーム右手の軌道が、急カーブしているし、進行方向となる左手奥も、急カーブしているではないか。狭い所に、ぎりぎり作った様な感じだ。いや、こんなきついカーブで大丈夫なの、と余計な心配をしてしまった。

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 足元を見れば、すでに鉄博。

 「ニューシャトル」、正式には、「埼玉新都市交通伊奈線」と言い、開業は、東北新幹線の大宮暫定開業の翌年、昭和58(1983)年12月22日である。新幹線の車内から、「ちちゃこな列車は、どだなどごまで、いぐなだべが。」と、眺めていたし、今もなおであった。そして、現在の終着駅・内宿まで開業したのは、平成2(1990)年8月2日なのだ。そのちちゃこな列車が、大勢の乗客を乗せて到着。代わりに、小生父子を含めた乗客が、車内を埋める。やがて、出発となり、右に急カーブして、JR線に沿う様にして、鉄博に向かう。レールがないと言う事は、車輪は、自動車と同じゴムタイヤを使っている。また、案内軌条式を採用している様でもあり、札幌市営地下鉄と同じシステムでもある様だ。登り下りを繰り返して、4分ほどで「鉄道博物館」駅に到着。

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 ニューシャトル・「鉄道博物館」駅にて。
 
 建物を繋いだアーケードの下を歩き鉄博へ。行列は、そんなに長くもなく、最後尾に並び、動輪や台車枠などを見ながら、開館を待つ。いよいよ開館となり、さぁ、どこから見てみようか。まず、目に着いたのは、「EF58型61号機」電気機関車である。お召列車専用機として製造され、首都圏の直流電化区間を中心に活躍した機関車。しばらく、見入ってしまった父子である。

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 「EF58型61号機」電気機関車。

 車両の並んでいる展示室へ。鉄道車両の歴史を感じさせる車両が、たくさん並んでいる。
 まずは、「1号機関車」から見て行く事にする。国指定重要文化財で、鉄道記念物の機関車は、新橋−横浜間の鉄道開業時に、イギリスから輸入された蒸気機関車のうちの1両だとか。後ろに、創業期の客車を従えて、当時の様子を再現している。展示室には、写真でしか見た事のない車両から懐かしい車両などが並んでいるので、「鉄道少年」に戻ってしまいそうになった小生ではあったが、一応、鉄父としての威厳を見せなけらば(普段の父としての威厳はどうなのかは、ご想像にお任せ。)と、古い車両についての予備知識のない愚息に、簡単な説明をしながら、各車両を見て回る。きれいに保存展示されている車両達を、現代の車両との違いを、興味深げに観察している愚息である。
 茶色の小さな電気機関車「ED40型」。こちらも、国指定重要文化財で、準鉄道記念物である。国鉄初の本線用国産電気機関車で、鉄道省大宮工場(埼玉県)で製造された。信越本線横川−軽井沢間の急勾配区間で使用するため、アプト式を採用した。そのためのラックレールも設置されていた。
 独特な雰囲気の列車があると思えば、それは、歴代の「御料車」だ。和洋折衷かと思えば、ドイツ風だったり、日本の伝統を重んじた内装を持つ車両だったりと多彩だ。時代と言うか、漂う高貴な空気感を感じた。

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 「1号機関車」。

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 「ED40型」電気機関車。

 気を取り直すかの様に、小生が、幼き頃から親しんだ車両が並ぶ所へ。ED75型700番台電気機関車に、455系急行型電車、そして、485系特急型電車(ボンネット型)がそれ。活気のあった全盛期の山形駅を思い出させるかの様で、鉄道少年には堪らない並びだ。ED75型には、愚息も、イベント列車や左沢線配給などで、馴染みがある訳だが、並んでいる455系と485系(ボンネット型)は、模型でしか見た事がないので、実車を前にして、外観・内装共に、しっかり観察している。車内にあった冷水器に、何をする設備か解らない愚息。それを、思い出を交えながら、説明する小生。備え付けの紙コップに、冷たい水を注ぎ、飲んだっけと。

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 後列左から、ED75型700番台電気機関車・485系特急型電車(ボンネット型)・455系急行型電車。

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 優等列車にあった冷水器。

 貨車のコーナーでは、レムフ10000形貨車に興味を寄せる愚息。鮮魚を低温に保っった状態で、東海道・山陽本線を、高速運転で輸送した。走る冷蔵庫と説明したが良かったのかな。丸みのある青い客車は、20系特急型寝台客車だ。同系最後の新設特急である「あけぼの」号として、奥羽本線でも運転された。真夜中に、親のカメラを借りて、山形駅に撮影に出掛けたっけ。客室内には入れず、覗き込む様に見ただけで、展望スペースに立ち、過行く夜景を妄想する。愚息は、狭い三段ベッドでの旅を、どう想像していたのだろうか。新幹線車両200系と0系も展示され、硬い座席の作りと狭さに、時代の流れを感じた。

 一度、本館を出る。色褪せた183系特急型電車が並んでいる。駅弁を持ち込んで食べられる休憩所「ランチトレイン」として活用されている様だ。
 そして、南館へ。展示室と違った明るく開放的な館内には、400系新幹線とE5系新幹線が並んでいる。新幹線の新時代を築いた両車である。もっとも、E5系は、兄弟形式のH5系を含めて、東北・北海道新幹線で、絶賛活躍中である。隣にある、ちょこんと小さくて、丸みのあるシルバーメタリックの車両が、そう400系新幹線。開業当時の塗色に戻されての展示であり、いろんな思い出が頭を駆け巡る。新庄延伸開業後に生まれた愚息は、同じ銀色でも、延伸の際に増備されたE3系に合わせて塗り替えられた塗色が当たり前だったので、かえって、新鮮に見えていた様だ。しっかり観察をする愚息。表記や銘板を見ていて、車両メーカーや鉄道会社の銘板は解るが、「山形ジェイアール直行特急保有株式会社」は何なのか解らないでいる。当然だろうなと思いながら、その謎めいた会社が、何だったのかを、山形新幹線を開業させるためにも、重要な会社だった事を説明した。今はもうないけれど。
 400系のラストランを、山形駅で、愚息と二人で見送ったあの日。新幹線ホームの先端から、まだ幼かった愚息を肩車して、去り行く姿を、見えなくなるまで見続けた。試運転からその日までの趣味活動や半生、400系と共にあった様々な思い出が甦り、小生の目には、不覚にも似合わない涙が溢れそうになったのだ。

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 山形新幹線初代車両400系。

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 保有してたのは「山形ジェイアール直行特急保有株式会社」。

 再び、本館に戻り、2階に展示されている年表やジオラマ、収蔵資料などのコレクションを見て回る。収蔵資料の数の多さに驚く。ジオラマは、HOゲージで、線路の総延長約1,200mもあるとか。風景の中を、様々な車両が、迫力いっぱいに走る。解説を聞きながら、走る模型を追い掛け見るのも楽しいものだ。
スペースギャラリーでは、企画展として、「鉄道博物館 新収蔵資料展 鉄道写真家・南 正時 作品展 Lの時代 国鉄特急、大集合!」が開催されている。そう、これが見たくて来館したと言っても過言ではない。鉄道写真家の南先生が、鉄博に寄贈された写真からの作品展の第4弾。先生の作品のうち、1970年代から1980年代末までの特急列車をテーマとした写真約90点を中心に展示していた。当時「L特急」と言う愛称で親しまれていた運行本数の多い昼行の在来線特急。奥羽本線で運転されていた「やまばと(上野−山形間)」号・「つばさ(上野−秋田間)」号も、その仲間であった。上野−山形間で、両特急合わせて5往復運転されていた。「大百科シリーズ」で見ていた写真などが、大きな写真となって展示され、当時の風景の中を行く特急列車の姿に、少年時代が懐かしく思い出された。愚息は、当時の様子を知りながら、撮影の技術、むしろ構図の取り方を学べた様だ。久しぶりに、我が家にある「大百科シリーズ」を出して読んでみたくなった。

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 圧巻なジオラマ。

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 これが見たくて。

 屋上のパノラマデッキへ。新幹線に在来線、ニューシャトルが、すぐ近くを通過して行く。行き来する新幹線を撮影しようと思ったが、快晴を通り越して、あまりにも暑過ぎるので、そそくさと撮影しただけで切り上げ。駅弁を購入して、ランチトレインの455系(グリーンライナー色)で、涼みながら食べる。国鉄末期に、仙台地区の客車列車を置き換えるために、当時、余剰となった583系特急型電車を改造した715系1000番台や455(457)系などを普通列車に転用した際に、東北新幹線200系電車に似せたアイボリーホワイトの車体に、窓下にグリーンの細帯を巻いた塗色を採用し、「グリーンライナー」の愛称で呼ばれた。仙台地区のその他形式の電車も、それに塗り替えられた。東北地方の新時代を象徴した塗色だった。仙山線でも運転されていたので、懐かしい。展示車両は、偶然にも、持っている模型と同じ車番ではないか。
 ミュージアムショップで、お土産を購入して、大宮駅からの新幹線の時間もあるので、鉄博を後にする。もちろん、満足しての事。

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 パノラマデッキは炎天下。

 大宮駅から、「やまびこ」139号で、宇都宮駅まで自由席を利用する。自由席は、東京寄り最後尾の1号車にと、乗車ホームの端っこで列車を待つ。到着する列車を撮影するためでもあるのだが。現れたのは、銀色の車体を先頭にした「やまびこ」・「つばさ」139号。今朝、山形駅から、「つばさ」171号新庄行きとして出発したのが、「つばさ」139号として、E5系を従え、再び、目の前に現れた。
 「やまびこ」号の方に乗車。先頭後尾車となる1号車は、ご存じの通り、外観は、鼻先が長く、客室の窓の数も少ない。撮影した都合、運転席側の乗降ドア、車体のほぼ真ん中から乗り込んだ。座席は、5列で横は広いのだが、すぐ向こう側の壁があるではないか。座席の数は、中間車両の半分もない。定員30名(内:車椅子1名)と窮屈な感じのする空間。まぁ、30分程度の乗車だし、のどの渇きを潤すのにちょうど良い。

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 大宮駅に到着する「銀色のつばさ」号。

 宇都宮駅に到着。日光線へと乗り換える。日光線の案内板は、レトロ調な雰囲気。乗車ホームには、「日光線カラー」のE131系600番台が停車している。このE131系、使用路線毎に、塗色が異なり、番台区分も多様。番台区分の違い、あまり細かい事を気にしていたら、訳が分からなくなりそうだ。でも、大きく違う所くらいは、覚えていた方が良いのだろう。出発時間まで、観察を済ませて、車内で涼しんで待つ。
 乗るだけで良い愚息であり、車両の撮影は、ゆっくり駅撮りでも十分なのかもしれないが、どこかで走行写真も撮影させたい父。昔から、「なるべく、乗ったら撮る。」そして、「模型化したら買う。」の始末の悪い小生なのである。このE131系600番台、K社から、7月に発売されていた様な。
 出発した列車を、二駅先の鹿沼駅で途中下車。駅から、調べていた跨線橋を目指し、日光方面に5分くらい歩く。そこから見た風景は、転落防止用の網には、目隠しがされ、正面の撮影には、工夫が必要だ。橋の脇からなら、しっかり列車はきれいに撮影出来そうだ。二人して、同じ構図では面白くないし、安全を考えて、愚息には、橋の脇からの撮影を薦める。小生は、正面と言っても、架線が邪魔した形になるが、何とか撮影出来た。遠めに見えた開けた場所、時間に余裕があれば、そこまで行ってみたかった。撮影を終え、駅まで戻るが、ますます暑くなってきている。どこか喫茶店でもあれば、入って休もうかと思いながら、歩くが、それらしいお店がない。駅前付近だよね。はたまた、近くを通る東武鉄道の「東武日光線」の新鹿沼駅の方が賑わいを見せてしまっているのか。それとも、どこかの街とも同じく、郊外に大きな店でもあるのかな。駅のすぐ向かいに、何かお店があったが、ちょっとそういうお店ではなかった。仕方がないので、自動販売機でジュースを購入して、待合室で、日光行きの列車を待つ。静かな昼下がり。冷房もない開放的な駅舎に吹き抜ける風は、生暖かい。

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 E131系600番台。日光線・鹿沼−文挟間。

 冷房の効いた列車に乗り、暑さから解放された父子は、しばらくしてから、座席を立ち、前面展望を楽しみ始まる。交換する列車、樹々に覆われた様な区間、開けた区間、そして、東武日光線らしき築堤を見つけたりして、なかなか楽しい。
やがて、日光駅に到着。終着駅のはずだが、1番線ホームは、東武日光線を潜り、続いている。草が伸び、陰ってもいたので、解り辛かったが、その先に、行き止まりの標識が確認出来た。以前は、3番線もあったし、引き込み線や留置線もあった駅だ。

 空は、薄曇りとなり、いくらか過ごしやすくなっていた。駅からバスで、「日光東照宮」へ向かう。もう夕方であるにも関わらず、観光客であろう自動車が多く、また、外国からの観光客の姿も多い。さすが、「世界遺産の日光」である。バスを降り、参道を歩く。気のせいか、清々しい気持ちになる父子。さて、本殿を拝観しようとしても、解っていたが、まもなく受付終了の時間。それに、主要な社殿が、外部装飾の劣化や木部の腐朽が進んでいるとの事で、平成9(1997)年度から大修理が始まり、同27(2015)年4月の家康公400回神忌を経て、今年の令和6(2024)年度まで、「平成大修理事業」が行われている最中だった。周りに足場が組まれており、急ぎ足で拝観しても何だからと、代わりと言ってはいけないのだろうが、下野之国一宮である「日光二荒山神社(にっこうふたあらさんじんじゃ)」へ。ひっそりとした佇まい。ちょうど、「風鈴まつり」が開催されていたらしく、多くの風鈴が飾られ、それらの音色を聴き比べ、涼しむのも良さそうだ。風はないが、涼しくなって来たのは、厳かな場所が故なのか。

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 とりあえず日光東照宮。

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 日光二荒山神社の「風鈴まつり」。

 お土産屋さんのある所まで歩き、店内を覗きながら、日光駅行きのバスを待つ。日光らしいお土産って何だろう。「湯葉」は外せないかな。バスに乗り、しばらくしてから、激しい夕立が降って来た。帰りの列車まで時間があるからと、東照宮でゆっくりしていたならば、大変な事になっていたかも。駅に着いても、より激しく降り続いている。涼しくなっていたのは、その前触れだったのか。駅舎内で大人しくしているしかなさそうだ。

 本当にそう思ったのかは忘れたが、大人しくしているはずもなく、歴史ある洋風二階建ての駅舎の観察を始める。駅舎は、大正元(1912)年に改築された二代目。2階には、かつての一等車利用者用待合室「ホワイトルーム」があり、装飾品はそのままに、現在は駅ギャラリーとして、一般公開している。ホーム側の窓から、「東武日光線」を行く列車が、目線の高さで見える。駅舎右手にある屋根のついた広場は、団体待合所であるそうだ。1階には、貴賓室もあるが普段は公開していない。かつては、東京駅から、準急「日光」号が運転されていたが、今は、定期列車として運転されているのは、宇都宮駅との間を結ぶ普通列車のみである。「TRAIN SUITE 四季島」の停車駅でもある様だが。

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 日光駅。

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 日光駅2階の「駅ギャラリー」。

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 ギャラリーの窓から、東武日光線が見える。

 出札窓口では、外国人観光客に英語で応対している若い駅員さんの奮闘ぶりに、敬服して見てしまった。親に似ず、英語が得意な愚息も、そこまでの英会話は出来ないと感心していた。外国人観光客が行った後、来駅記念に入場券を購入した。待合室は、雨宿りも兼ねた方もいるのか、座る場所が少ない。折り返しの列車が入って来そうなので、早めに改札の中へ。いつまで、雨は降り続くのだろう。

 宇都宮駅に戻った頃には、雨は止み、街は、すっかり夜の装い。この町に来れば、やはり、餃子だろうと、新幹線ホームから見える駅(西口)すぐの餃子屋さんへ。相変わらず行列を作っているが、まだ時間も早いのか、さほど待たずに、店内に入れた。前回は、大行列で諦め、ついに、待望の来店なのである。好きな列車に乗って、訪れた先で、美味しいものを食べて、悦に浸る愚息。あとは、来年には、お酒が飲める様になれば、良くも悪くも、小生そのまんま。誇れる事ではないが、他人に迷惑さえ掛けなければ、それで良し。
 ビールとコーラで、お疲れ様。餃子とラーメンで、お腹もいっぱいになり、東口まで散歩がてら、「ライトレール」を見に行く事にした。

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 食べるのも旅の楽しみ。

 「ライトレール」、正式には「宇都宮ライトレール株式会社宇都宮芳賀ライトレール線」と言い、令和5(2023)年8月26日に開業した。日本国内の路面電車路線としては、万葉線(富山県)以来75年振りの新規開業。路線は、宇都宮駅東口と芳賀・高根沢工業団地の間で運行する。車両は、客室床面の高さが極めて低い超低床電車「HU300形」電車。「ライトライン」の愛称で呼ばれ、「ライト」は「LIGHT」に宇都宮の別称「雷都(らいと)」を掛けている。古来より宇都宮周辺は、夏に雷が多い気候であり、「雷都」と呼ばれて来た事、雷による夕立の恵みが豊作をもたらし、「らいさま」と呼ばれて来た事に由来する。「ライン」との組み合わせにより、「(未来への)光の道筋」というメッセージも込められている。なお、今年度の鉄道友の会「第64回ローレル賞」を受賞している。

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 ライトレール「HU300形」電車。

 一人で出掛けられる行動範囲が広くなった愚息の楽しみが、また一つ増えたのかもしれない。これから先、どの様な乗り鉄旅が、愚息を待っているのだろうか。

 宇都宮駅から、山形新幹線の下り最終列車「つばさ」159号に乗車。暑かった一日の疲れを癒す様にしながら、終点の山形駅を目指した。

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 無事に山形駅に到着。

 鉄道友の会山形支部・支部報 気動車急行「出羽」令和6年秋号 より:都合により、写真の一部差し替えと加筆をしています。


 


posted by 管理人:錯乱坊 at 13:04| Comment(0) | 鉄道徒然草

2023年10月29日

【ぶらり父子の旅‘23夏】

 昨年にも増して、より厳しい暑さが続く今年の夏。暑いとは言っても、まだこのくらいは我慢の範疇かと思いながら、あっさりと日焼けしてしまった挙句、やはり、熱中症の心配をしながら、本業を勤しんでいた。夜は夜で、冷たいナニを嗜むものだから、疲れと眠気に苛まれる毎日なので、やらなければならない事が後回しになってしまったりしながら、気が付けば8月になっていた。毎年お盆休みには、愚息とどこかへ乗り方に行っているのだが、その計画を立てるのを、すっかり忘れたままでいた。

 何処に行くにしても、指定席券の確保は厳しいかもしれないなと思いながら、とりあえず、愚息と相談を始める。昨年、候補に挙げたが、行かなかった路線に乗りたいと言うのかと思っていたら、予想に反して、方角は真逆で運転本数の少ない「只見線」に乗りたいと、相変わらず、無謀に近い要望を言って来た。大雨の災害から全線再開した路線だし、未乗区間を乗りたいのは解るのだけれど、時刻表と地図を、きちんと読んでないよね。
 愚息も、いくらかは自分で行程を組むものと淡い期待をしていたのだが、何をしているのだか、案の定、その気配はない。本人は、「一応、時刻表は見た。」とは言うのだが、どこかで挫折でもしたのかもしれない。だから、無謀な行き先なのだよ。

 「只見線」に乗りたいけれど、そのまま来た路を戻るのはつまらないとも言われては、どうその先を行けばよいのやら。かなり大回りの経路での乗り方になりそうだなと、時刻表を開いた。しかし、いつもの旅行日となる15日では、もともと運転本数の少ない長距離路線なだけに、接続が悪かったりして、山形に戻るには、ある程度の余裕があるものの、只見から先の車窓を楽しむ時間が少なくなりそうだった。午前中に、もう1本でも列車があればと思いながら、只見線の欄を読んでいたら、なんと、週末限定で運転されている臨時快速列車があるではないか。我ながら、気が付くのが遅いのであった。週末限定、直近では、13日(日)になるらしい。この列車を利用すれば、かなり動きやすくなりそうだ。指定席と自由席があるので、とりあえず、これに乗る事にして、急いで行程表を組んでみた。なかなか面白そうな行程表が出来た。と言うのも、一部の接続駅を介して、いくつかの経路が選べる事が解り、それを見比べながら、愚息と一緒に行先を決める事とした。最終決定権は、いつのまにか愚息にあり。小生は、「えきねっと」で指定席券の確保と、いつもの「南東北ホリデーパス」と、ややこしい経路の片道切符を駅窓口で発券してもらうなどの、切符の手配をする事に。

 ところで、13日運転の臨時列車とは、何ぞや。情報収集してみれば、通常の110系気動車が、会津若松駅と只見駅の間を、快速列車として1往復するとかで、会津若松発が10時だとか。これは好都合な時間帯なので、勇んで乗ろう。何となく指定席である事に違和感を覚えながら、万が一、混雑していて席に座れなければ嫌なので、新幹線の特急指定席券と併せて、「えきねっと」から予約した。でも、指定席がロングシートって何なの。まぁ、立ち席よりは良いのかもしれないし、自由席に空きがあれば、そちらに座ろうかと保険代わりにしたのである。いや、当日は、落ち着いて座っていない可能性の方が大な様な気もするが。

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 行程表作成中。

 お盆休みの過ごし方だが、乗り方が早まった事による予定の変更をして、13日を迎えた。
 例年通りに、早起きして、朝食抜きでの山形駅入り。山形新幹線ホームに立てば、人の動きが、コロナ前に戻りつつあるのか、山形を抜け出したいのか、思っていたよりも、上りの一番列車「つばさ」122号を利用する方が多い様だ。もっとも、そんな中の二人でもあるのだが。
 待っている間、どこかで、「銀色」のつばさ号を期待していたが、新庄からやって来た列車は、通常の「おしどりカラー」のつばさ号。乗ってしまえば、何ら変わらないのだけれど、ちょっと期待外れ。

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 山形駅から「つばさ」122号に乗って。
 
 さぁ、出発だ。車両センターには、E8系が居るはずだが、都合よく見つけられるはずもなくして通過した。車窓から夏の風景を見ながら、朝食にと購入した駅弁を食べ始める。いつもは、そそくさと軽く食べて学校に出掛けている愚息なので、さすがに、朝食としては多いだろうと思っていたが、完全な乗り鉄モードになっているのか、時間を気にしないで、ゆっくり味わいながら食べている。そして、車内販売が回って来たので、何かおやつでもと呼び止める。もう食べられる事もないだろうと思っていた、あの「シンカンセンスゴイカタイアイス」があるではないか。これは食べるしかない。しかも、コラボ商品として「ずんだ」味もあり、食い意地の張った愚息は、当然の様に迷う事なく、それを選び、小生は、定番の「バニラ」味を選んだ。

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 シンカンセンスゴイカタイアイス。

 板谷峠を越え終える頃、雨の心配もなくなりそうに青空が見えて来た。外は暑くなっているのだろうか。広い構内の庭坂駅、東北新幹線へのアプローチ線を行き、信夫山を見ながら、福島駅に到着。仙台からの「やまびこ」号と連結して、福島からは、同じ列車とは思えないくらいの速度を上げながら、東京へと向かう。
 速さに見惚れているのも束の間とばかりに、もう郡山駅が近付いている。ここで降りて、磐越西線へと乗り換えとなる。
 新幹線ホームから在来線ホームへ。快速列車の座席を確保し、発車時間まで、愚息は、構内の観察や並んでいるタンク車や機関車を間近に見たりした。そうそう、ホーム内に売店があったはずだからと、この先の食料確保が困難になるかもしれないかもと、念のために買い出しに行ったのだが、店員さんのいないオールセルフ店舗(セルフレジ)となっていて、哀しい事に酒類は置いていなかった。しかも、現金が利用出来ないとかなので、「モバイルSuica」で会計を済ませた。不便なんだか便利なんだか、よく解らない。

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 EH500型電気機関車。郡山駅にて。
 
 結構暑くなって来ていたので、冷たいビールも美味しいかなと思っても、冷静に考えれば、まだ8時半にもなっていない。車中では、冷たいコーヒーやお茶を飲みながら、磐越西線の夏景色を楽しむ事にした。住宅街から、緑濃い田園風景、そして、山あいへと進む。川桁駅の駅前広場には、「沼尻軽便鉄道」の記念碑がある。同軽便鉄道は、沼尻鉱山の硫黄を運ぶ事を目的に、大正2(1913)年から、川桁駅と沼尻駅間16kmで運行を開始した。その後、鉱山の好景気と共に、湯治客やスキー客、もちろん沿線の人々の足として、多くの人々に「マッチ箱」「豆汽車」との名称で親しまれた。昭和42(1967)年には、磐梯急行電鉄と社名を変更し、裏磐梯への観光鉄道化を目指し、接続する磐越西線の電化に合わせ、1067mmへの改軌と交流電化による直通運転を模索したが、むなしく非電化のまま同44(1969)年に廃線となった。なお、丘灯至夫(おか としお:福島県田村郡小野町出身)作詞の歌謡曲「高原列車は行く」のモデルとなった鉄道でもある。
 ここから車窓には、しばらく磐梯山を間近に見ながら会津盆地へと進み、愚息は、2月に乗った「風っこ」号で見た冬景色との違いも楽しんでいた様だ(【ぶらり父子の旅・番外編‘23冬】を参照)。磐梯山を背景にした鉄道写真を撮影するために、もう何年も訪れていないなと思い返しながら、あそこはどうだとか、ここはどうかとか、撮影ポイントをあらためて見直しても見た。

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 川桁駅前にある沼尻軽便鉄道記念碑。

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 夏の磐梯山。

 進行方向右側に、喜多方方面からの線路が近付いてくれば、間もなく会津若松駅だ。到着した向こうのホームには、只見線の列車が止まっている。とりあえず指定席券を持っているからと、勝手知ったる何とやらでもないのだけれど、ちょっと改札の外へ出ながら、駅前の様子を眺め、売店で、待望の缶ビールとおつまみを、愚息はカルピスを買って、長距離列車での水分補給に備えた。
 只見線のホームは、臨時列車で指定席もあるためなのか、そんなに混雑している様でもない。隣のホームには、会津鉄道の観光列車「お座トロ展望列車」が、出発するところであった。JR(国鉄)キハ40型などからの改造で、名前の通りに「お座敷」「トロッコ」「展望車」からの編成だそうで、車歴は古いが、会津線をこれに乗って楽しんでみたいと思いながら、見送った。

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 お座トロ展望列車(左)。会津若松駅にて。

 臨時列車「只見線満喫」号に乗り込む。とは言え、定期運用に就いている何の変哲もない110系気動車である。指定席を探しながら、3両編成の車内を見渡す。若干の空席がある様だが、さすがに自由席は満席。小生達の席は、最後尾の1号車で、ロングシート。解り辛いので、社員さんに案内して頂いた。しかし、先に隣席に座っている方が、あまりにも足を広げていたので、座れそうにもない。声掛けして、席を詰めてもらったが、自分の席に座っているとの思いからか、どこか納得してなさそうな様子。自由席ならば、素直に席を詰めてくれたのだろうか。ロングシートも指定席と言われれば指定席なのだけれど、解り難そうで、場合によっては、トラブルになるのかなと思いながら席に着いたのだった。

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 只見線のりば案内掲示板。会津若松駅。

 定刻の10時となり、定期列車感満載の臨時列車は動き出した。座席が座席だけに、よそ行きでない普段の列車を楽しむ感じで、のんびり会津の風景を楽しめそうだ。
前回(【ぶらり父子の旅‘19夏】を参照)訪れた時よりも、眩しい太陽の下、青空が広がる会津盆地に稔る稲穂を眺め、外は暑いのだろうなと、窓の開かない空調の効いた車内で、呑気に小生は缶ビールを、愚息はカルピスを飲む。只見まで、途中駅での列車交換はなかった様なあった様なと、時刻表をうろ覚えのまま、会津坂下駅に到着。ここで交換する列車を待つらしい。その交換する列車に、時間変更を掛けての運転で、時刻表を読めば、この先には、交換設備のある駅が無くなっているのだろうかと、定刻より30分以上待たせていた様だった。
 山あいに進みゆく様にして、会津柳津駅が近付き、駅前には、蒸気機関車が保存されていたよなと確認しながら見ていた車窓に、何やら黄色い地元のヒーローらしいのが目に入って来た。黄色?胸には「柳津」の文字を掲げているから、あのパインサイダーマンではないのは確かだ。ヒーローは、列車を、駅に降り立つ人々を、出迎えてくれていたらしい。

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 会津柳津駅にいたヒーロー。

 そして、会津西方駅辺りから、只見川は近くなり、昭和16(1941)年10月28日に、会津線の終着駅として開業した会津宮下駅に到着。駅を出ると只見川に沿うが、しばらくすると第三只見川橋梁で只見川を渡り、すぐ滝原トンネルに入る。滝原トンネルを出ると、車窓左手に少しだけ只見川が見られるが、すぐ早戸トンネルに入ってしまう。早戸トンネルを出ると、すぐ早戸駅である。目まぐるしいが、川に沿う様にして進んで行く。座席にじっと座れるはずもない父子は、扉付近に立ちながら、青空と深緑、それらの色に染められた川面を車窓に眺め、雄大な流れと時折見られるダムはもちろん、山あいにある暮らしにも思いを馳せたのである。

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 青空と緑の山と只見川。

 また只見川が近くなり、川に架かる茶色い橋が見えれば、まもなく会津川口駅に到着。すぐそこには、川幅の広い只見川。涼しいと言うより、吸い込まれそうで怖いかもしれない。島式のホーム反対側には、共に東北色を纏った110型気動車とE120型気動車で組まれた列車が佇んでいた。停車時間が、ちょっと長めであったので、おとなしく待つはずもなく、ホームに降り立ち、只見川と列車を一緒に撮影して、川面からの風を感じながら風景も眺め楽しんだ。

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 東北色の110型と只見川。会津川口駅にて。

 発車時間となり、車中へ。そして、いよいよ会津川口駅から先の未乗区間へ。平成23(2011)年3月に東日本大震災があり、さらに追い打ちをかける様にして、7月には、新潟・福島豪雨があった。そして、只見線は鉄橋の流出や土砂崩れによる線路の崩壊など、甚大な被害を受けた。特に会津川口〜只見駅間は被害が大きく、只見川に架かる橋梁が流出したほか、盛土の崩壊などが起きた。只見線を復旧したいという地元の強い思いが実を結び、被災から11年2か月となった昨年、令和4(2022)年10月1日に全線で運転が再開された。待ちに待った豪雪地域を行く鉄道の再開を、地元の方々は、殊の外、喜んだ事であろう。
山奥に進んでいるのだが、まだ川幅は広く、またダムも見られる。雪解け水、水量は多く、それ故に、発電用のダムが建設されたのだろう。

 全線開業までには、軽便鉄道法により、会津線として、会津若松駅−会津坂下駅間が、大正15(1926)年10月15日に開業。会津柳津駅まで昭和3(1928)年11月20日に延伸開業した。その先の会津柳津駅−小出駅間は、改正鉄道敷設法に規定する予定線である。会津柳津駅からは、そのまま会津線の延長として同16(1941)年10月28日に会津宮下駅まで、小出駅からは、同17(1942)年11月1日に大白川駅までが只見線として開業した。只見川への田子倉ダムの建設のため、同31(1956)年に会津宮下駅−会津川口駅間が開業。会津川口駅から只見駅を経てダム建設現場までは、電源開発株式会社の専用鉄道として敷設され、同32(1957)年から同36(1961)年まで、ダム建設輸送に使用された。田子倉ダム完成後は、会津川口駅−只見駅間を国鉄の営業線として使用するための改良が施され、同38(1963)年に国鉄線として開業した。日本鉄道建設公団により「只見中線」として建設されていた只見駅−大白川駅間が、同46(1971)年8月29日に延伸開業し、会津線は、小出駅−会津若松駅間の路線として全通を果たし、只見線と改められた。同時に支線であった西若松駅−会津滝ノ原駅間を分離して、新たに会津線(現:会津鉄道の一部区間)とした。

 壮大な川に沿い、幾つもの橋梁を渡り、やがて、人家も増え、開けて来た様だ。只見川の支流・叶津川(かのうづがわ)に掛かる緩やかな弧を描いた様な橋梁を渡れば、まもなく、終着駅の只見駅に到着。2時間を超えた涼しい車中に慣れてしまったものだから、ホームに降り立つや否や、蒸し暑くて敵わない。それでも、しっかりと、車両と駅構内の観察をする。すぐそこには、のどかな山村の風景があり、小さな踏切と小さな神社がある様だ。しばらく時間を忘れて眺めていたい。

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 只見川の支流・叶津川(かのうづがわ)。

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 只見線の全線運転再開を喜ぶ横断幕。

 そんな思いにさせられたが、次の列車までの間に、昼食を済ませなければならない。同駅周辺にいる時間は、1時間とちょっとしかない。いや、もう、1時間を切っている。食事の出来るお店を調べて来てはいるものの、土地勘があるはずもなく、とりあえず、ラーメン屋さんでもあればと思い、駅を後にした。お土産屋さんを過ぎ、大通りらしき交差点まで出てみるが、飲食店がある様なない様な。もう少し行けばあるはずとは思ったのだが、お昼時でもあり、同じ列車から降りた人や観光客らしい人々で、賑わっている。来た道を戻り、通り過ぎたお土産屋さんでも、何か食べられそうなので入ってみた。すぐ座って食べる事が出来た。塩焼そばを食べていたら、ほどなく、混み始めて来た。発車時間まで、まだ余裕があるので、新しそうな店に、冷やかしがてら入ってみる。どうやら、総合案内所とお土産や軽食、そして休憩の出来る施設だったらしい。早く気が付いていれば、もう少しお腹いっぱいに食べて、ビールも吞まれたのに・・・。お土産品の中に、全線運転再開を記念したグッズが様々あり、せっかく乗車して、ここまで来たのだからと、記念にいくつか購入した。愚息から買わされたと言うべきか。我が家へのお土産に、「只見ポンせんべい」も購入した。塩味が110型気動車、醬油味がE120型気動車と、それぞれデザインされた箱で売られていた。

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 小さな踏切を渡れば小さな神社が。

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 只見ポンせんべいの箱は。

 只見駅に戻れば、小出行きの臨時列車が止まっている。編成の小出側には、E120型気動車が組まれていたので、当然とばかりに迷う事なく乗り込んだ。このE120型気動車は、米坂線や羽越本線で活躍していた頃、何度か撮影したくらいで、乗車するのは初めてなのである。愚息は愚息で、幼い頃に、カミさんと乗ってはいるのだが、記憶にないらしい。幼い頃の記憶って、そんなものなのかもしれないし、よく言われている幼い頃にいろんな体験をさせて云々は、いろんな事を体験させたとしても、単なる親の思い出かエゴなのだったかなと思ったりしている子育て卒業間近の小生なのである。でも、覚えてなくても、同じ趣味を楽しんでいる訳だし、愚息なりに、何かを得るものはあったのかな。

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 東北色のE120型(右)。只見駅。

 只見駅を出発した列車は、福島県と新潟県の県境を越え、大白川駅に到着。使われなくなってから、ずいぶんと歳月が経ってしまった給水塔が、終着駅だった名残りを示している。出発した後は、山を下り、山里と川面から田園の中へ、がらりと車窓を変えて、小出に向かう。駅名標に、「会津」から「越後」を冠にした駅名を目にして、新潟県を走っているのが実感出来た。なんとなく、陽の傾きが早くなっているなと車窓を眺めていたら、架線柱が見えて来た。上越線が近付き、ほどなくして小出駅に到着。

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 会津の山あいから越後の里へ。

 上越線の駅として、大正12(1923)年9月1日に開業した同駅は、構内が広いと言うか、ホームがやたらと長く感じられる。それもそのはず、上越新幹線開業まで特急の停車駅として、新潟−上野間で運転されていた特急「とき」号が停車していた。昭和37(1962)年6月10日に登場した同特急は、181系の9両編成で運転を開始したが、同49(1974)年暮れから、183系1000番台を12両編成で投入。同50(1975)年10月には、同型の追加投入と、従来からの181系も12両編成となったので、長いホームであるのも頷ける。

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 吹き抜けた時に想いを寄せて。小出駅。

 次の上越線の列車まで時間があるので、駅前を散策しようと駅を出る。何だか静かな駅前とその先の道路を行き交う自動車。もしかしたら、町外れに鉄道路線は敷かれたのだったのか。道路案内板には、「小出(市街地)」とあるので、賑やかそうな場所は、まだ先な様だ。町の様子も見たいが、時間はない。軽く駅前周辺を歩き、旅館や酒屋さん、ちょっと脇に入れば食堂もあるにはあったのだが、着いた時間が昼下がりだったためか、静かなもので、暑さと気怠さばかりが目立ち、水分補給をするため駅に戻る。小さな駅舎に不釣り合いな新しい駅名表が掲げられている。字は、新駅舎の完成記念に、当地・魚沼市出身の俳優「渡辺謙」さんが書かれたそうだ。

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 俳優・渡辺謙さんの書。

 長いホームに姿を現したのは、2両編成のE129系電車。どこかのんびりした様な静かな車内で涼しみながら、この列車の終点である越後湯沢に向かう。田園風景の中に、上越新幹線の高架線が近からず遠からず伸びている。通過するシンカンセンを期待したのだが、そう都合良くあるものではなかった。
 六日町駅に到着。同駅は、上越線の途中駅であるばかりか、北越急行ほくほく線の起点駅でもある。北越急行線の列車は、上越線に乗り入れて、越後湯沢駅まで直通運転を行っている。なので、途中下車して、北越急行HK100形に乗り換えて、乗り比べも出来そうなのだが、このまま越後湯沢へと乗り通す。
 石打駅の構内に、長大な車庫があるのを見つけて、昔、スキーシーズンに運転されていた臨時列車を思い出した。同駅は、特急「とき」号が臨時停車したほか、特急「新雪」号を始め多くの臨時列車の終着駅となっていた。また、時期は前後するが、広い構内には、石打機関区があった。車庫は、旅客輸送でも拠点駅の一つであった名残りだろう。
 新幹線の高架が近付き、車窓を遮るかの様にすぐ側を並走しながら、列車は越後湯沢駅に到着。降りたホームの反対側に、北越急行HK100形が佇んでいる。乗れてはいないが、何故か撮影していたこの車両も、車歴は古くなっていたはず。簡単な観察をした後、改札を出て、駅前の様子を見てみる事にした。新幹線の駅らしい大きな駅舎だ。当地は、温泉地でもあるためか、駅前広場には、足湯が設けられていて、それを楽しんでいる人々の姿がある。足を入れて、ちょっと一休み。足元から伝わる熱さが心地よく、もっと、ゆっくり浸かっていたかったが、この後に乗る列車があるので、ほどほどにして駅に戻る。

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 E129系電車。小出駅。

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 北越急行HK100形。越後湯沢駅。

 戻ると言っても、降りた在来線ホームではなく、新幹線ホームへと向かう。上越新幹線にも、何度か乗っている父子ではあったが、ここ越後湯沢駅からの乗車は初めてとなる。
 E7系の「とき」330号が到着。同系に乗るのは、いつ以来だったろう。東北新幹線筋の派手な色彩の車両群に比べ、気品があり落ち着いた感じが好ましく思える。次の高崎駅まで、30分足らずの乗車だが、広い室内で、座席にもたれながら足を延ばす。新潟県から群馬県へと県境を越え、越後湯沢駅―上毛高原駅間にある「大清水トンネル」を通過。昭和54(1979)年1月25日に貫通した同トンネル(全長22,221m)は、当時世界最長だったスイス連邦鉄道(SBB・スイス国鉄)の「シンプロントンネル(19,823mおよび19,803m)」を抜いて世界一となった(その後、海底の下の青函トンネルや東北新幹線の岩手一戸トンネルに抜かれたが)。トンネルを抜けるまで、ずいぶんと時間が掛かるなと思っていたら、他のトンネルとシェルターを挟んで一体化していたらしく、約31Kmの区間がトンネルの中を走っていた事になる。同トンネルの下り線は、その途中から越後湯沢駅を挟んだ塩沢トンネルに掛けて、長い下り坂となっている。それを利用して、開業前だった山形新幹線の初代車両400系が走行試験を行い、平成3(1991)年3月16日には336km/hを、9月29日には345km/hを記録している。当時としては、リニアを除き、国内最速記録であった。
 トンネルを抜け、車窓から、どんよりとした曇り空が見えるのが気になったが、右側から北陸新幹線の高架が近付いて来て、間もなく高崎駅に到着。

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 越後湯沢駅から「とき」330号に乗って。

 北関東最大のターミナル駅とあって、駅構内・駅ビル内は、多くの人々で賑わっている。駅前の散策、と言っても軽く歩いただけで、自由通路に鎮座する大きな達磨を見て、水分補給してから、在来線ホームへと入った。行き交う列車の観察と撮影をしながら、小山行きの両毛線の列車を待つ。北関東と神奈川県を結ぶ「湘南新宿ライン」が運転しているので、その使用車両であるE231系とE233系が主に発着しているのだろうと思い、観察をしていたのだが、認識不足も甚だしく、国鉄末期の昭和60(1985)年度に登場した211系が、今なお、高崎駅から放射線状に延びている各線にて、細部に交換された部分はあるものの、活躍を続けている事に感動した。愚息は、山形線の719系と顔や姿が似ている国鉄型の車両を、夢中になって撮影していたし。

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 国鉄型211系電車。高崎駅。

 両毛線の列車211系は、ほどほどの込み具合で発車した。高崎駅を起点とする上越線を下りながら、ロングシートの車窓には、今にも雨が降りそうな雲とぎっしりとした街並みが続いて見えた。新前橋駅から両毛線が分岐しており、これからの時間帯は、途中で日没となり、全線での車窓が楽しめそうにはないのだが、未乗路線でもあったし、どうしても乗りたいと言う愚息の希望から、大宮廻りより楽しいかもしれないと、高崎駅で途中下車したのだった。上越線から両毛線に入った列車は、利根川を渡れば、すぐ前橋駅だ。群馬県の県庁所在地・前橋市の代表駅であるが、新幹線や各線が乗り入れている高崎駅に比べれば、影が薄い様な気もする。まして、上毛電気鉄道の上毛線中央前橋駅の方が、中心市街地や市役所・県庁などに近いともなれば、地元の方々の利用頻度は如何ほどなのだろうか。通りすがりの輩が、余計な心配をする事もないのかもしれないが。
 車窓の街なみは、少しずつではあるが、畑なのか緑色の大きな葉が目に付いて来ている。ちょっとばかり列車に乗っただけなのに、閑静とした所が近かったとは。乗客達は、家路を急ぐ人達ばかりなのか、各駅で、少しずつ降りて行き、伊勢崎駅では、大勢の人々が降りて行った。大きめな駅な様だ。東武鉄道の伊勢崎線が乗り入れて、東京・浅草駅を起点とする同線の終点でもあったのだ。

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 伊勢崎駅の駅名標。

 この先は、閑散とした車内となり、わずかな乗客を乗せて、再び走り出す。次の駅は、国定駅。同駅のある群馬県伊勢崎市国定町(旧:佐波郡東村国定地区)は、あの江戸時代後期の侠客である「国定忠治」の生地である。
 車窓左側に並走する線路を見ながら、まもなく桐生駅に到着した。同駅は、わたらせ渓谷鐡道との接続駅でもある。並走している線路がそれであり、同駅から栃木県日光市の間藤駅まで「わたらせ渓谷線」として営業している。旧国鉄特定地方交通線でJRの足尾線を引き継いだ路線である。
対向列車との交換をした後、だいぶ暗くなった中を走り出す。ほとんど乗客のいなくなった様な車内。愚息は、車内観察へと動き出す。4両編成の列車を、どこをどう観察しているのやら、なかなか戻ってこない。

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 交換列車待ち。桐生駅。

 すっかり暗くなった頃、栃木駅に到着。長めの停車時間なのか。到着したホームや周りを観察していたら、JRらしからぬ車両を見つける。もしかしたら、東武鉄道の「リバティ」では。愚息のデジカメでズーム機能を使い確認したら間違いない様だ。観光地日光への足として、東武鉄道の日光線が乗り入れていて、接続駅となっているのだった。

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 奥に「リバティ」。栃木駅。

 闇夜を映すだけの車窓。また少しずつだが、乗車する人々が増え来ている。街の灯りが大きく近づいて、小山駅に到着。

 同駅は、東北新幹線と東北本線(宇都宮線)、そして、水戸線との接続駅であり、両毛線の起点でもある。到着したホームが8番線とは、意外にも大きな駅なのだろうかと降り立った。ここから宇都宮駅に向かうために、東北本線(宇都宮線)のホームへ移動しながら、ホームへの附番が、何か違っている事に気付く。同駅は、新幹線停車駅であるが、その新幹線ホームから1番線が始まり4番線まで、在来線ホームが後に来て6番線から16番線まであるが、通過線やホームの欠き取り部分、そして、貨物列車などの待避線の関係で欠番が多くある様だ。構内を左に右にと歩いて、10番線ホームで列車を待つ。やって来たのはE231系、宇都宮行きの列車なのが、何故か、東京方面に向かう列車に思えた。俄かに、方向音痴になってしまったらしい。たぶん、暗闇の中での同駅への両毛線の列車の進入方向を、勘違いしてしまったための様だったが、愚息も、しっかり案内表示を確認していたので、不安なく乗車出来た。車内は、混んでいて、やっぱり都会なんだなと感心しつつ、空いた座席、久々のボックスシートに座った。

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 小山駅の駅名標。

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 E231系電車。宇都宮駅。

 宇都宮駅で途中下車。遅めの夕食となってしまうのだが、「餃子の街・宇都宮」なので、夕食はここの街でと決めていて、我慢していた父子なのである。新幹線の下りホーム(山形・新庄方面乗り場)から見える行列の出来る餃子屋さんが気になっていた事もあったし。今日も並んでいる様だが、まだ20時を過ぎたばかり、時間には余裕があるから、少々並んでも大丈夫かなと思いながらお店の前に。評判のお店なのか、この時間で、1時間待ちの行列だとか。見ただけで諦めて、他の店を探す。たしかに餃子屋さんが多そうだ。そして、どの店も混んでいそう。ラーメン屋さんなのか中華料理屋さんなのか、今一つ解らなかったが、よその店にも掲げてある「宇都宮餃子」ののぼりがあるので入ってみる。待たずに席に着けたのは、運が良かった様で、ちょっと遅かったならば、ここも、待たなければならなかった。まずは、のどを潤すために、小生はビールを、愚息は、コーラを頼み、それぞれ餃子とラーメンを頼んで、旅の途中の食をゆっくり楽しんだ。

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 餃子の街・宇都宮。

 日中は暑かった道中だったが、宇都宮駅前に吹く夜風が心地よく、駅の反対側へも行ければ行けたのだが、駅に戻って、最後の乗車列車となる山形新幹線「つばさ」159号を待つために、新幹線ホームに入る。ここも小山駅同様に、新幹線ホームから附番されていて、下りホームが、1番線になっている。方向音痴は、ホームの案内板を見て、帰巣本能が刺激を受けたのか直った様だ。
 まだ発車時間まで30分はあったので、早く入り過ぎたかもしれなかったが、発着する他の新幹線列車を撮影しながら待つ。先発するE6系とE5系が併結運転している列車に乗りたい衝動にもなったが、冷静に考えれば、最終列車である「つばさ」159号に乗れなくなるのだった。この列車は、「なすの」271号・那須塩原行きだったからである。

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 案内板に山形の文字。宇都宮駅。

 静まったホームの遠くに青白い光が近付いて来るのが見えた。案内のアナウンスが、「つばさ」159号の到着を知らせている。遠く離れた場所、知らなかった場所を訪れて、いろんな事を見聞した帰り道。最後は、山形新幹線に乗り、いつもの居場所のある山形に帰って来たのであった。

 鉄道友の会山形支部・支部報 気動車急行「出羽」令和5年秋号 より:都合により、写真の一部差し替えと加筆をしています。

posted by 管理人:錯乱坊 at 20:12| Comment(0) | 鉄道徒然草

2023年03月25日

【ぶらり父子の旅・番外編‘23冬】

 この冬も、愚息は、また乗りたい列車があるらしい。と言うより、この一年で、同じ車両に何度目の乗車になるのだろう。お気に入りの車両である事は間違いなさそうだし、季節や運転区間も違うのだから、どこか旅心が掻き立てられるのか。仕方ないけど、付き合ってやるか。いや、乗りたい。
 行程の作成は、愚息に任せ、切符の手配を「えきねっと」で事前予約して・・・。しかし、あろう事か、「おばあちゃんと乗りに行く!」と、衝撃の発言が待っていたのであった。「えっ、またなんだ。」と、おばあちゃん子らしい一面を見せられるも、何故だか、父子で一緒に行く事を諦めるしかなかったのが悲しい。

 その列車とは、「風っこ」号。父子して、様々な所に行っているが、何故だか、「風っこ」号だけは、おばあちゃん(小生の母)がご指名なのだ・・・。
 直近では、左沢線での「さくらんぼ風っこ」号や、石巻線での「石巻線開通110周年」号として運転された際にも乗っている。左沢線では、ここ毎年乗っていた様な気がするのだが。そして、2月に磐越西線・郡山−喜多方間で運転するとか。冬の会津路かぁ、同じ雪国であるが、土地柄の風情や歴史に想いを寄せる小生であるだけに、久し振りに訪ねてみたいと言う思いもあったのだが。

 2月12日に運転する「風っこストーブ 喜多方」号の事前予約をし、運よく往復での確保が出来た。それを踏まえて、愚息の作成した行程表は、朝早く出掛けなくてはならないし、帰りは遅くなりそうな、ましてや、おばあちゃんと二人連れ。鉄道趣味を理解してくれている「鉄祖母」あらため「鉄婆」は、寄る年波には勝てず、口は達者でも、歩いて移動する時は楽ではない。「おばあちゃんは、長く歩く事や、階段の上り下りが辛い時があるんだけど。」と、心配する小生であったが、愚息は、「時間に余裕を持っているから、大丈夫。」とあっさりと言うのだった。まぁ、駅のバリアフリー化も進んでいるし、無理しない程度にしてくれるのであれば、それなりに、負担は少なく楽しんで来れるのであろう。
 という事で、乗れない小生は、撮影にだけでも行きたいけど、一人で出掛けるのもつまらない。そこで、小生が鉄道趣味をする上で、寛大な心で理解をしている、いや、諦めているのであろう鉄妻であるカミさんを、「喜多方ラーメンば、かしぇっから。あべ。」と、日頃の悪行の罪滅ぼしと気分転換を兼ねた、喜多方までのドライブに誘ったのである。

 この冬も、大雪による列車の運休が、出発日の2日前にも山形新幹線の運休があったので、予定通りに出掛けられるのか心配になった。それが嘘だった様に、落ち着いた青空となった前日。そして、銀色の「つばさ」号が復活運転を開始したので、ちゃっかり撮影にも出掛けた父子(「ミスターNゲージさんの画像・45」を参照)。

 迎えた当日の朝は、まだ明けきらぬ空を見て、山形新幹線の上り1番列車「つばさ」122号に乗る愚息と鉄婆を山形駅まで送る。我が家に戻り、わらわらと朝食を済ませ、すっかり明るくなった7時20分に、カミさんを隣に乗せて出発。
 我が家の近くには、「東北中央自動車道」の「山形中央インターチェンジ(IC)」があり、用向きによっては、よく利用している。ただ、「山形上山IC」以南が福島まで高速道路一本で行ける様になっていた事もありながら、南行きは利用する事もないままでいた。高畠町以南に行く用事が、これと言ってなかったので、利用する機会もなかったのだ。このドライブなのか撮り方も、急ぐ道中でもないはずなのだが、物は試しにと「山形中央IC」の料金所を潜ったのである。
 高速道は、米沢側に進路を取り、我が町内を二分するかの様に貫き、山形市南西部を行く。しばらくして、線路が見えてくる。奥羽本線(山形新幹線)と交差して、「山形上山IC」へ。そこから、上山市東部を貫く未知の道路へと。高層マンションが見えてきて、まもなく「かみのやま温泉IC」だ。ここから、撮影ポイントである石曾根の跨線橋も近い。ここまでの所要時間が半分ほどと、20分近い短縮であった。その先は、街からも線路からも離れて、何処の山を突き進んでいるのやら。若干、不安もありながら、拓けた土地に出た。「南陽高畠IC」からは、米沢南陽道路として供用されていた区間へ。そして、「米沢北IC」で、高速道を降りる。山形と違って、やはり米沢だからか雪が多く積もっている。

 市街地に繋がる道路も整備されているが、市中心部に行かずに西部へと進み、見覚えのある施設に、今いる場所の見当を着けながら、国道121号線を進む。どこの地方でも見掛ける様な、チェーン店が並ぶ様子を見ながら、米坂線と交差する跨線橋を、「成島」駅付近を、我が家から1時間足らずで通過した。以前であれば、米沢市内まで1時間20分は掛かっていたかと思うと、なんと便利になった事か。鉄道ならば、奥羽本線で「米沢」駅から米坂線に乗り換えて、接続待ちを考えるとなると。自動車での移動が、便利になればなるほど、鉄道利用が減ってしまうのが、当たり前な気がした。もし、鉄道路線が無くなってしまったならば、生活の足を失う事になり、困る方々もいるのも事実である。

 121号線(大峠道路)で、ひたすら喜多方方面へと進む。除雪が行き届いているのか、快適に進める事が嬉しい。県境を越えるこの道。その昔、米沢(米坂線・西米沢)駅と喜多方駅を繋ぐ鉄道路線の建設計画(改正鉄道敷設法別表第26号に規定する予定線「山形県米沢より福島県喜多方に至る鉄道」で、日光線・野岩線(現:野岩鉄道)・会津線(現:会津鉄道)と結んで東北地方南部を縦貫する野岩羽線の一部として計画)があった事を、カミさんに話したが、軽くあしらわれた気がした。
 道中、たしか、その一部区間として磐越西線喜多方駅から、分岐し建設された日中線(昭和59(1984)年4月1日廃止)の熱塩駅が、記念館として佇んでいるはずなのだが、どうした事か、街なみも変わっているし、見当たらない。むしろ人家がない。道を間違えたつもりもなく、カーナビに従っての運転でもあり、後で気付く事になるのだが、どうやら、ある場所から脇道に出なければ、旧駅前通りには行けない様だった。という訳で、線路跡も見る事もないまま、道の駅「喜多の郷」を、9時前に通過。予定時間よりも、大幅に早かったので、このまま、撮影場所に向かったところで、特にする事もなさそうだ。とりあえず、見当を着けていた撮影場所の状況を確認しながら、会津若松市内へ向かう。

 「風っこ」号の各駅での到着時刻を頭に入れながら、同市のシンボルでもあり、幕末には戊辰戦争の激戦地となった場所(【ぶらり父子の旅‘19夏】を参照)でもある「鶴ヶ城」の別名を持つ「会津若松城」、その城跡の「鶴ヶ城公園」をちょっとばかり散策。人気の少ない朝は、カミさん共々、ゆっくり眺められて良かったと思う。ただ、10時前とあり、城前のお店は開店前だった。

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  会津若松城。

 「鶴ヶ城」を後に、最初の撮影場所を目指す。場所探しに、なんだかんだと、変なこだわりを見せる小生に、「いろんな所を見られて、楽しい。」とは言っていながら、内心、きっと呆れているはずだろう・・・。
 そんな頃、愚息達は、「風っこ」号に乗り、もう郡山駅を出発したはず。

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  「風っこ」号(手前)とE721系(奥)。郡山駅にて。

 撮影するにあたり、雪深いであろう風景を思い描いて出掛けて来たのであったが、よもやの雪解けで早春な風景が広がり、構想とは違った写真になってしまうが、仕方がない。
会津観音と磐梯山の見える場所で、「風っこ」号を待つ。
カミさんは、農道を散歩しながら、小さな花やフキノトウが芽を出しているのを見つけて、嬉しそうに教えてくれた。一足早く春を見つけたカミさんは、本当に楽しかったのね。

 「風っこ」号に乗った愚息達は、車窓から、澄んだ空気と青空に、雪を被った磐梯山が間近に見られ、雪景色を満喫したそうだ。そう言えば、進行方向右側に乗っていたはずだが、冬姿のために、窓がはめ込まれていたので、通過した時には、こちらからは、姿を見つける事が出来なかったが、愚息は、撮影している小生を見つけたそうだ。

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  車中から磐梯山を望む。

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  会津の早春賦。広田−会津若松間。

 「風っこ」号は、「会津若松」駅で、しばらく停車し、向きを変えて、「喜多方」駅へと向かう。その停車時間と磐越西線の線形を活かして、撮影場所の移動をする。直線ではあるのだが、この時期での時間帯としては、正面が影になりそうなのであった。もう少し、場所を変えてみようかも考えたが、無理して、列車を逃すよりは、露出を変えれば、何とかなりそうな気がして撮影した。案の定、後追いの方が、きれいに撮影出来たのであった。

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  後追い。姥堂−塩川間。

 とりあえず、下りの撮影は終わったし、約束していた喜多方ラーメンを食べようと、喜多方市内に車を走らせた。どこのラーメン屋さんが良いのか、見当つく訳がないまま、市内と言うより、「喜多方」駅に向かってしまうのは、悪い習性なのだろうか。駅舎内に、観光案内所があるし、あわよくば「風っこ」号を見れるかもしれない。後者の想いが強かったりして。
「喜多方」駅前の駐車場に車を止める。駅前には、列車から降りて来た様な方々の姿も。まだ、駅には、「風っこ」号が止まっている。愚息は、鉄婆を待たせて車両観察でもしているのだろうか。小生夫婦は、観光案内所で、ラーメン屋さんと2時間程度の散策コースを聞いて、歩いて駅を後にした。

駅前にあるラーメン屋さん。喜多方に寄れば、ここの店に入る事が多いのだが、場所と時間帯もあり行列が出来ていた。別のラーメン屋さんを探しながら、散策を楽しむ事にした。もらった観光マップを広げながら、気ままに歩くのも悪くない。「蔵のまち 喜多方」なので、車で移動していれば、ついつい蔵ばかりに目が行きがちで、見過ごしてしまいそうな場所や店を、歩きならば、気軽に寄っては覗けるのだから。漆器店などを冷かしながら、商店街の方へ歩く。どこも同じなのか、日曜日でシャッターが閉まっている店が多い。もっとも、観光客相手ではない店なのかもしれないが。「ラーメン神社」と言うのを見つけた。ご利益が何なのかは解らなかったが、道中の安全だけは、祈願したい所ではありそうだった。

 歩いてばかりでは、お腹が空き過ぎてしまう。「老麺会」に入っているお店であれば、間違いないだろうと、匂いに誘われて辿り着いたのは、小道に入った所にあった古い感じのラーメン屋さんなのであった。ラーメンと言えば、みそ味を好む小生なのだが、この店には、あいにく、しょうゆ味と塩味しかなく、二人仲良くしょうゆ味を注文した。太麺でコシがあり、どこか懐かしい味のするスープに、お腹ばかりか心までもが満たされた。
 駅前に戻り、日中線の線路跡を探してみる。喜多方駅構内からの分岐点は、解らなかったけれど、線路跡の一部は、サイクリングロードになっている様だ。沿道には、しだれ桜の木が並んでもいたので、廃線探訪を兼ねて、花咲く頃にまた来てみたいものだ。

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  喜多方駅。

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  約束の喜多方ラーメン。

 そう言えば、愚息達は、「喜多方」駅から、また乗るはずなのだが、駅にはいなかった。どうしたのだろう。鉄婆の様子から、あまりうろつき回る事は考え難いし。
 心配するより、信じる事にして、次の撮影場所へと車を走らせる。ただ、午前中より天気が悪くなって来ていたので、それも悩みの種となった。時間には余裕はありそうなので、思い切って、磐梯山を背景に出来る「川桁」駅付近まで行こうか。そうすると、ただただ車での移動が長いばかりで、カミさんを疲れさせるだけになるし。手頃な場所をと、再び、会津若松市内へと戻る。
 そんな中、愚息達は、「風っこ」号を降りた後、駅前の件のラーメン屋さんに入り、ラーメンを食べたらしい。そして、目敏く時刻表で見つけていた列車に乗って、「会津若松」駅に行っていたそうだ。その見つけた列車とは、会津鉄道からの乗り入れ列車。JRの車両ではなくて、会津鉄道の車両AT-700型に乗りたいばかりに、喜多方にいなかったのだ。「ホリデーパス」を有効活用した愚息なのであった。一緒にいた鉄婆としても、ゆったりした座席に座って車窓を眺められたのも良かったのかは、聞いていない。
 「会津若松」駅で、乗り入れしている車両と駅の観察やお土産を買って、「喜多方」駅に戻って来たそうだ。どことなく予感はしていたのだけど・・・。

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  会津鉄道AT-700型。喜多方駅にて。

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  AT-700型(左)と「風っこ」号。会津若松駅にて。

 そして、「喜多方」駅から、「風っこ」号に再び乗りながら、やってみたかった事があったそうだ。車内のだるまストーブで、するめを炙って食べたと嬉しそうだった。

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  ストーブ暖かく。

 寄り道しながら、午前中に探した場所も考えたが、進行方向は逆になるので、そこは避けた方がと、撮影場所を迷っているうちに、「風っこ」号の通過予定時間が迫って来ている。
線路沿いに、広い駐車場とその前にある石鳥居を見つけた。鳥居や祠を入れるのも面白いかもと、そこに行ってみる。しかし、近くで見れば、周りが暗いし、解り辛そう。結局、踏切脇から、差し障りのない構図で撮影した。まだ春遠くと言った感じとなった。
 これで、列車の撮影は終了。まだ、帰るのには、早い気もする。なにせ、愚息達の帰りは、仙山線廻りで、22時半は過ぎる事になっている。「ばんっあど、んぐなだべ。なして、つばささ乗って、ちゃっちゃど、帰ってくる気ねんなだがず。」と、父子で揉めたのだが。

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  まだ春遠く。広田−会津若松間。

 「どこか、もう一つくらい見たいよね。」と言うカミさん。ならばと、小生が、候補を挙げた中から、「御薬園(おやくえん)」を選んだ。代々会津藩主の別荘地として、また、疫病から領民を救い、病気の予防や治療などに使用する、薬草の研究のために設けた場所である。静寂に癒され、住宅街の中にいる事を忘れさせてくれる庭園。季節ごとに咲く花々の彩(いろどり)や、木々が雪をまとう白銀の景色が楽しめる。
 ここにも、幕末の戊辰戦争の痕跡を見る事が出来る。庭園中ほどにあり、藩主の茶室として使用された「楽寿亭」の縁側の柱には、深い刀傷が残っている。
この「御薬園」は、戊辰戦争の際、西軍傷病者の治療所に使用され、戦火をまぬがれ、当時の佇まいと戦争の激しさを見る事が出来る。
 のんびり庭園を散策し、お土産売り場で、絵ろうそくや赤べこなどの民芸品を見ながら、会津地方の文化を、店員さんから教えて頂いた。たくさんの素敵な絵ろうそくの中から、迷った挙句、赤べこの描かれた物を購入したのだった。
 そして、帰路に着くのだが、まだ16時前なのだ。でも、山形入りする頃には、すっかり暗くなっているだろうから、まずは、焦らないで運転しよう。

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  御薬園。

 来た道を戻るだけなのだが、道路標識の「米沢 喜多方」を示す方に進んでいたら、新しい知らない道に進み、高規格道路の「会津縦貫北道路(国道121号線の一部)」に入ったらしい。磐越西線が、眼下に近くを通っている様だ。しばらくして出口の「喜多方IC」を抜けた。そう言えば、朝、高速道路の入り口かなと思って通過した所に出た様だ。
 ここからは、素直に来た道を戻るだけ。峠越えを前に休憩のため、閉店近い16時半頃、道の駅「喜多の郷」に立ち寄る。その後は、山形までノンストップ運転で、18時半の到着を見込んだ。安全運転してはいるが、暗くなった道、峠越えは、いくらカミさんが隣にいても心細くなるものだ。米沢の街の灯りが見えて、安堵したのは言うまでもない。山形まで順調に進み、若干見込みより早めに入る。某とんかつ店で夕食を摂り、19時半前には我が家に着いた。
 愚息と鉄婆は、たくさんの会津土産を持って、予定通りに、山形駅からタクシーで帰って来た。

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  福島駅から仙台駅へ。

 結局のところ、鉄道だの幕末だのと、小生の屈折した趣味に、カミさんを付き合わせてしまったのかもしれないのであった。また、愚息は愚息で、おばあちゃんをだしにした様な、それでいて、思いやりと好奇心を持ちながら、冬の列車旅をしたのだった。
 何はともあれ、カミさんとおばあちゃんは、気分転換にもなったし、小生と愚息は、「風っこ」号を楽しみ、鉄分補給が出来た一日であった事は間違いないのである。

 鉄道友の会山形支部・支部報 気動車急行「出羽」令和5年春号 より:都合により、写真の一部差し替えと加筆をしています。






 

 
 


 
posted by 管理人:錯乱坊 at 15:07| Comment(0) | 鉄道徒然草

2022年11月03日

【ぶらり父子の旅‘22夏】

 いつもより早く訪れた様な今年の夏。眩しい日差しに暑い日が続いて、熱中症の心配をしつつ、人一倍日焼けしてしまったお疲れ気味な我が身であったのだが、またお盆休みには、愚息と、どこかへ乗り方に行こうかと、それを楽しみにしながら、本業に精を出していた。むしろ繁忙期であったので、なんとなくではあったが忙しくしていた。
 忙しいからと言っても、計画は立てねば。この夏は、どこに行こうか。相談をし始めれば、相変わらず「南東北ホリデーパス」を利用しての乗り鉄を目論む小生。行きたいところを絞り込めないでいる愚息。そんなこんなで過ごしていると、全国各地での大雨による被害を、テレビや新聞が伝えている。近くでは、大江町を流れる最上川の氾濫、大峠道路の一部法面崩落、米坂線の橋梁が崩落などと水の力の恐ろしさを再び思い知らされたのであった。
 そうなると、全国的にも鉄道路線の不通区間が多発しているらしく、乗り継ぎや迂回の可否、そもそも、遠方への乗り方が難しいのではと心配になって来たのだが、とりあえず、計画だけは進めるとして、今回は、行ってみたい場所・乗ってみたい路線が複数あるらしい愚息に、あらためて時刻表の読み方を勉強してもらうために、行程の作成を任せてみようと、時刻表を一冊預けたのである。

 行きたい場所はと聞けば、どちらも訪れた事のない「男鹿(秋田県)か気仙沼(宮城県)。」。どちらも、山形から日帰り圏内ではある事ではあるのだが、その選択基準って何なの・・・。
 「男鹿(男鹿線)」は、先日の東京行きで見て来た小湊鉄道・五井駅にいた40型気動車(男鹿線色)の活躍していた地を訪れてみたいそうだし、「気仙沼(気仙沼線)」は、鉄道路線跡をバスが運行しているBRT区間に乗ってみたいとか。どちらが、旅を無理なく楽しめるのか、両経路の行程表を作成して、それを見比べながら、一緒に行先を決める事となった。
 いろんな条件を比較し、また大雨の影響からも、必然的に「気仙沼」行きと決まったのだが、ここでまた問題が。現地には、お昼前に着きたい思いは同じであるが、経路が違えども、到着時刻は15分と変わらないのに、山形からの出発時刻には大きな違いが・・・。往路にて、BRT区間を乗りたい愚息。車窓を楽しむには、その判断は正しいのだが、そうなると、仙山線の始発列車を利用しなければならない。もっとも、愚息は、大丈夫とは言うのだが早起き出来るのだろうか。

 小生自身、何度か訪れた事のある気仙沼。でも、前回訪れたのは、震災前。それも、20年くらい前の話って、どだなだずぅ。鉄道はもちろん、自家用車にて訪れながら、沿線を含め、散策したり鉄道写真を撮影したりと、思い出深い物があるだけに、震災からの復興の様子が気掛かりでもありながら、行けないままとなっていた。
 行先が決まり、せっかく気仙沼に行くのだからと、鉄友で気仙沼在住の物書きさんに連絡を入れてみた。転勤族でもある彼とは、山形在勤中に、とある場所でのひょんな出会いからお付き合いが始まり、時折、連絡を取り合いながら、現在に至っている。
 こちらの旅行日と行程を伝えたところ、当日は予定がないらしく会える事となり、BRTの乗車の感想も聞きたいとか。待ち合わせ場所の提案もあり、指定された場所が、気仙沼駅か気仙沼市内かと思いきや、「奇跡の一本松」は如何かと。はて、それって、震災の津波で被害に遭った陸前高田市(岩手県)の松林のアレの事か。BRTの駅にも名を連ねている様だが。一本松も見たいし、鉄道路線から外れた一般道路にある様な駅、むしろ「バス停留所」にも興味をそそられる。そして、誘われるままに、行程表を組み直したのであった。もっとも、気仙沼駅からの乗り継ぎを確認しながら、追加の切符も購入するだけの事。
 
 そうと決まれば、毎度の「ホリデーパス」とエリア外の乗車券を購入すべく山形駅へ。ご時世とは言え、「みどりの窓口」が減らされ、「えきねっと発券機」を案内されての購入に慣れてしまったのは、便利よりも寂しい感じがするのは、古い人間なのかもしれない。
 指定席券がないので、慌てる事もないのだが、「ホリデーパス」と一緒にエリア外の普通乗車券とBRT区間の乗車券を購入する事にして、発券機の案内画面に従って購入した物の、なぜかBRT区間の乗車券だけが、発駅と降車駅の選択まで進めたのに発券出来ない様だ。駅員さんにも確認してもらっても同じで、窓口ならばと案内してもらったのだが、結果はまたしても。案内して頂いた駅員さんは「バスの形をした鉄道路線なのに。」、窓口の駅員さんは「経路によっては、もちろん発券出来るのだけれど。」と、何か腑に落ちない言い方をされていた。もしかしたら、「ホリデーパス」のエリア内にも気仙沼線BRT区間が入っているから、列車とバスの連続乗車券ならば大丈夫だったのかもと、勝手に推測。ここは割り切って、バスなのだから、普段の路線バスと同じ現金払いで利用する事にする。

 今夏の山形市の花火大会が霞城公園での開催とあって、我が家からは例年よりも近くなり、迫力のある打ち上げを、虫に刺される心配もなく、窓辺からビールを片手に見る事が出来た。明朝は早い事もあり、ほどほどにして眠ったとは思う。

 迎えた8月15日の朝。いつも早起きしない愚息が、声掛けしないのに起きている。この度は、今まででも早い時間での出発となるだけに、緊張もあったのか、初めて訪れる路線・場所への楽しみがそうさせたのかは定かではないが、ただ単に、鉄の血が騒いだのかもしれない。小生に、そっくりなだけだろうけれど。とか言いながら、そそくさと、仙山線の始発列車に乗るべく、朝食抜きで家を出る。
 山形駅の「みどりの窓口」はまだシャッターが閉まっており、自由通路には、ひんやりとした空気が、わずかではあるが乗客であろう人々の姿がチラホラ。「こだい朝早っから、どさ、んぐんだべが。」と、自分の事を棚に上げて、見渡しながら改札を抜ける。
 仙山線の始発列車は、この車両だけかもしれないが、乗客は誰も居らず、ガランとしており、静か過ぎるくらいである。数名の乗客を乗せた列車は、定刻通りに出発。

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  早朝の山形駅自由通路。

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 旅の始まりはE721系電車。

 曇り空。そして、向かう先の天気予報は、「曇りのち雨」。降り始めたとしても、帰りの列車の時間まで持ってくれれば。長い「面白山トンネル」を、轟音を響かせて駆け抜けた列車は、宮城県仙台市へと入った。「仙山線」は、全国でも唯一である県庁所在地が隣接する山形市と仙台市の中で完結する路線であり、生活や観光を共にする「仙山交流圏」の重要な交通手段でもある。山を下り、住宅が多くなると、各停車駅から乗客が増えて、静かだった車内は、別の列車の様に雰囲気が変わり始めた。やがて仙台駅に到着。
 次の乗車列車までの待ち時間に朝食を摂ろうと改札を出たが、駅構内は、まだ7時前とあってか、各店舗は、シャッターが閉まっている所が多く見られる。歩みを進めて、某コーヒーショップが目に留まる。店内には、小生達の様な旅行者やビジネスマンの姿があり、父子は、モーニングセットを食べながら、これからの長距離の乗り継ぎ旅を前に寛いだ。

 仙台からは、東北・石巻線経由で気仙沼線へと乗り継ぐ。東北本線の車窓からは、JR貨物の機関区に並ぶ機関車達や松島の風景、仙石線と間近に並ぶ様子を楽しめたが、まだ大雨の影響が残っているらしく、一部区間での徐行運転をしての小牛田着。小牛田からは石巻線の1両だけの列車に乗り換えた。あの黄色い奴らに見送られるかの様にして出発した列車は、東へと真っすぐな線路を進む。いつの間にか、前面の窓ガラスに、ポツポツと雨粒が着いている。あぁ、予報より早く雨が降り出したかな。父子ともに数年振りの石巻線、愚息はまだ幾つだったのだろうか。乗った事は覚えている様だが、鉄道の旅は、いつも新鮮な、いや、新しい発見がある事は間違いないと思う。
車中から、涌谷駅での列車交換を眺め、次駅の前谷地駅で降りる。雨はあがったらしい。「前谷地」駅は、気仙沼線との乗換駅なのである。

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  小牛田駅にて。100型気動車。

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  涌谷駅での交換列車は110型気動車。

 改札を抜けて、駅舎の観察をしたいところではあったのだが、乗り継ぎ時間が、なんと3分と絶妙な良さだったので、それは出来ないものの、ホームでの石巻線と気仙沼線の列車の並びや観察をそそくさと済ませて、気仙沼線の車中へ。こちらも1両だけの列車である。地元の方々と旅行者で、程好い乗車人数である。
気仙沼線の列車だからと言っても、その路線名となった「気仙沼」までは列車は行かない。途中の「柳津」駅までとなるのだ。
その先は、平成23(2011)年3月11日に発生した「東日本大震災」の津波により路線の約3割が流失した事から、バス代行輸送を開始すると共に、公共交通としての、早期復旧の手段として、鉄道路線跡をバス専用道とする工事を進め、新たな交通システムとしてBRT(バス高速輸送システム)となった。令和2(2020)年4月1日に、気仙沼線のBRT区間となった柳津―気仙沼間の鉄道事業を廃止している。

 前谷地駅から20数分の列車の旅。車窓には畑の先に人家や工場が建ち、どこにでもありそうな見覚えのある様な飾らない田舎の街なみ。途中駅には「豊里」の文字があるではないか。「豊里」と言えば、奥羽本線の新庄駅より北に向かい、山形県最上郡鮭川村に「羽前豊里」駅がある。開業は大正10(1921)年12月15日で、昨年には、開業100周年を迎えている。で、こちらの「豊里」駅は、「陸前豊里」駅であり、柳津線の開通により、昭和43(1968)年10月24日に開業している。同52(1977)年12月11日に、柳津―本吉間が開通した事により、同32(1957)年2月11日に開業していた気仙沼線の気仙沼―本吉間と繫がり、あらためて、前谷地―気仙沼間が「気仙沼線」として全通開業したのである。南三陸を貫き、海岸線を走るなど風光明媚な観光路線としても期待されたのであった。なお、「羽前」は山形県を、「陸前」は宮城県(岩手県南三陸地域含む)を指す、それぞれの旧国名である。
 列車は、大雨の影響からか、溢れるのではないかと思わせる濁った水が流れる北上川に架かる大きな鉄橋を渡って、間もなく「柳津」駅に到着。

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  前谷地駅にて。石巻線から気仙沼線へ。

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  溢れそうな北上川を渡る。

 気仙沼線の途中駅であるのに、車止めのある静かな小さな終端駅の佇まい。その線路の先には、まっすぐに伸びている舗装された道路が見える。そうBRT区間となっている線路跡なのだ。知識として理解してはいても、実際に目にすれば、往時を知る者としては、どこか複雑な想いが、正直、虚しくもある。その頃を知らない愚息は、鉄道路線跡を走るバスに、興味を示していただけに、訪れる場所と共に、期待を抱いていた様だ。
 しばらくすると、専用道の向こうから、赤いバスが近付いて来た。いよいよ、このバスに乗るのかと思いながら見ていたのだったが、乗り場には停まらず、駅前広場に出て来た。通り過ぎるバスには「自動運転実験中」の文字が。そう言えば、一部区間(柳津―陸前戸倉間)で、自動運転(無人運転)の試験運転を行っていると、なんか聞いていたし、駅構内にも案内が掲示されていた。そのため、BRTの乗り場が、構内の専用道(線路跡)からではなく、駅前広場に変更となっていて、試験区間は、一般道を迂回運転していた。駐車帯に通常のバスは待機中。ログハウス風の駅舎を背にしたバス乗り場にて、他の乗客達の後ろに並び待つのだが、どう見ても、山あいの路線バスに乗るために待っている様にしか思えない。これから気仙沼まで、硬めの座席とトイレもないバスに揺られながらの2時間弱の旅。たぶん地元の方々でさえ嫌いそうな長旅を、物好きな旅行者がいるものだなぁと、ここでも自分を棚に上げ、他人事の様にして、乗り込んだ車内を見渡した。たしかに、地元の方らしい方はわずか。たぶん近距離なんだろう。小生達の様な方々の方が、ちょっと多いくらいで、全員で10名前後と言ったくらいか。全区間乗るのは、何名だろう。

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  柳津駅はログハウス風。

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  これから先はBRTのバスで。

 定刻通りに出発したバスは、駅を背にして集落の方角へと走り出す。線路跡、BRT専用道から離れ、あちらこちらへと、くねくね曲がる物だから、方角を見失い、何処に向かっているのやら判らなくなって来た。しばらく揺られて、何気なく築堤があるのに気づき、ちょうど赤いバスが走り去っていくのが見えた。「自動運転実験中」のバスだ。気仙沼線のBRT区間と一般道(国道45号線)が交差する辺りを走っているらしい。本来ならば、そちらを乗って行けていたはず。「陸前戸倉」駅からは、専用道へ入る。地元の若者らしい方が数名、バスの到着を待っている。専用道は、改修や補強が施された中、トンネルや土留めなど鉄道路線の面影を残す建造物がそのまま活用されてもいる。まさに「バスの形をした鉄道路線」である。志津川まで専用道を走り、車窓の右手に海が広がるのが見えた。志津川湾である。遮る物が少なく、よく見えるのは、高い位置に建設された鉄道路線だったからこそか。
 空は、少しずつ明るくなって来ている。天気予報は、好い方に外れてくれたのか。志津川の町に入る手前で一般道に出る。周囲は、津波で壊滅した旧南三陸町の中心部だったらしい。被災した建物何棟かが、当時の様子をそのままに、津波の怖さを伝える様に残されてもいる。交差点付近の駐車場の中にある「志津川」駅。プレハブの仮駅舎らしいが、 料金補充券で指定席を発券してくれるとか。ただのバス待合所ではなかった様だ。

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  志津川湾を望む。

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  志津川駅。

 「志津川」駅を出発したバスは、町中をぐるぐる回る様に、高台の役場と病院、被災者が移り住んだ団地を縫う様に、上るは下るは、廻った挙句に、よく停まる。これのどこが鉄道路線なんだろうか。地域に寄り添う路線バスそのものなのではないか。地元の方々には便利となったのかとは思うのだが、長距離を行く旅行者目線としての移動手段としては、この寄り道は如何なものかとも思いながら、震災から復興をし、その途上にある町の今を知るには良いのかもしれない。晴れ渡る青空から、希望の光が志津川の町に差しているかに見えた。その向こうに、鉄道橋梁が見えている。気仙沼線のBRT専用道に掛かる鉄橋なのだろう。「志津川中央団地」駅、むしろバス停留所からその先は、再び、専用道に戻る。そして、見たばかりの橋梁を渡るのであるが、前後のガードレールもあるためか、バスには不釣り合いな大きく頑丈な気がした。鉄道としての構造物が残る中を進み、山が迫るのかトンネルが続く様で、トンネルの狭間にある「清水沢」駅では、列車交換(行き違い)ならぬバス交換のために、乗っていたバスは交換待ちをした。バスには、大きなトンネルではあるだけに、列車が走れなくなった淋しさを感じながら抜けたのである。
 しばらくは、海から離れて、内陸部をいくつかのトンネルを抜けながら走り、いつしか車窓の風景を遮るかの様に長く高い壁が見え始めた。そろそろ、海が近付いていてもおかしくない所でもあったので防潮堤なのだろう。整地された土地には、まだ建物が見られず、ただ草が伸びていた。町と海を隔て、景観を変えてしまった巨大な防潮堤。これから、どの様な街づくりとなるのだろうか。三陸道を上にした鉄橋を渡れば、「本吉」駅だ。途中の各駅は、もうバス停留所に様相を変える中、ここには凛とした駅舎があった。気仙沼から、この「本吉」駅までの区間運転もあり、鉄道時代よりもかなり運転本数が増えて便利になっている。ここからしばらく走った所で一般道に出る。鉄道路線は大谷海岸(おおやかいがん)沿いを走っていたのだが、被災した事もあり、鉄道路線の復旧よりも一般道の併用としたのか、復興した周辺の様子は大きく変わっていた。線路と共に松林がなくなったが、大谷海岸の砂浜は残され、そこで海水浴を楽しんでいる方々がいた事が嬉しい。
 まもなく「大谷海岸」駅へ。道の駅「はまなすステーション」との合築駅舎として親しまれていたが、震災による津波により駅舎が損傷し、また、近くの砂浜が地盤沈下した事により海が間近まで迫り、危険だった事もあり移転され、道の駅大谷海岸のリニューアルオープン(本開業)に合わせて道の駅敷地内に移設された。列車が発着していそうな風格もあるので、駅としての機能がどうなのかも気になり、バスを降りてしまいそうな衝動に駆られてしまった。乗客のトイレ休憩や乗務員さんの交代があれば、少しでも安心で快適に、何よりも安全に長距離バスを利用出来るだろう。ちなみに、旧駅があった場所は防潮堤や砂浜の用地となっている。

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  長大な防潮堤。

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  大谷海岸駅。

 「大谷海岸」駅を出発したバスは、砂浜を眺めて、バスには似つかわしくなさそうな脇道、そして、また専用道に入って行く。ここから先は、線路跡を気仙沼に向けて進んで行く。「陸前階上(りくぜんはしかみ)」駅あたりから、沿線に住宅が多くなっている。その向こうには、気仙沼湾が近い。車窓右手から、工場や住宅の後ろに大きなつり橋が見えたら、「南気仙沼」駅だ。大川を渡り、街の西側を迂回して、左手に線路が見えてくれば、一関から延びている「大船渡線」だ。並走し、鉄道信号を潜れば、「あぁ、やっぱり鉄道なんだ。」と、バスに乗っている事を忘れそうになりながら駅構内を進み、終点の「気仙沼」駅に到着。
 BRT区間用の乗り場は、鉄道時代とプラットホームはそのままであるために、線路跡をかさ上げして、バスへの乗り降りや駅改札口への行き来が楽に出来る様になっている。
じっと座っているだけの長時間のバス旅は、それなりの楽しみ方は出来たと思うのだが、列車の旅が主な父子には、車内を歩く事や前面展望が出来なかった事で、体力的な事よりも気持ち的な事の疲れの方が大きく感じられた。

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  風景が変わってしまった大谷海岸。

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  気仙沼駅構内は列車に乗ってる錯覚に。

 体をほぐしながら、改札口を出る。「ホリデーパス」のエリア末端駅となる「気仙沼」駅は、高台にあるために、震災での津波による被災を免れており、それなりに手が加えられてはいたが、昔のままの駅舎の佇まいが随所に見られる。トイレと駅前観察を済ませ、大船渡線BRT区間「奇跡の一本松」駅までの乗車券を窓口で購入する。発券された切符を「ないだて、横さ長い大きめの切符なんだどれ。」と、驚きと珍しさも一緒に受け取った。
 お昼ちょっと前に発車となる大船渡線BRT「盛」行きに乗るために、ホームへ。まもなくして、一ノ関からの大船渡線の列車が到着した。東北新幹線からの乗り継ぎ客が多かったのか、ホームは賑やかとなり、そして、BRTへの乗り継ぐ方もあった。バスを利用する方々は、地元の方より、大きな荷物を携えたどこかの学生さん達の方が多くて、ちょっとした行列が出来たものの、全員座れそうな感じの中、最後尾に並んでバスを待つ。
 ほどなくやって来た「盛」行きのバスに乗り込む。車内を見渡せば、空席があり、離れていたものの座れると安心したのだが、その空いている席二人掛けや後部の席に、大きな荷物を置いて、相席を拒否する学生達が、自分達の貸切バスかの様に、周りを気にせず、好き勝手に座る様子に呆れては、良識を持たずして、他人を思いやる事を知らない彼らの姿に哀れさを感じたのである。ほぼ同世代でもある愚息も「混んでいるのならば、席を空けてあげるのが普通じゃないのかな。」と言う始末、良い子に育ったものだ。
 いつもであれば、席が空いているのだからと、声掛けしても座っているのだが、今回に限って言えば、これから先、立っている事の方が貴重な経験が出来ると聞かされていたので、あえて、前方もしっかり見える位置に立つ。運転手さんは、少々、訝し気だったかも。

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  気仙沼駅BRT乗り場。

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  気仙沼駅。駅舎前にアーケード。

 「気仙沼」駅を出発。様変わりしてしまった駅構内を進み、「確か、この辺にあった踏切から、大船渡線の列車を撮ったっけ。」と、踏切のあった場所を探してみるが、解らないまま通り過ぎた。「鹿折唐桑(ししおりからくわ)」駅まで線路跡である専用道を走り、真っ直ぐ伸びる道を、大船渡線の線路跡を、そのままBRT専用道として、山の懐へ入り行き、鉄道としての次駅「上鹿折」駅へと向かっても良さそうなものだが、その手前で、いきなり右へ直角カーブして一般道へ向かう。なお、BRTの経路から外された「上鹿折」駅には、ミヤコーバスが、BRT扱いとして運行している。
 「鹿折唐桑」駅前のこの地区は、震災での津波と火災で壊滅し、巨大な漁船が打ち上げられていた所でもあり、今もまだ空き地が広がっている。
 この先、一般道を走るのであるが、線路が付け替えられたかの様に、鉄道路線跡を利用しないで、大きく経路を変更したために、途中駅「上鹿折」・「陸前矢作」駅を通らずに、岩手県の「陸前高田」駅を目指す。ちなみに、「陸前矢作」駅までは、「陸前高田」駅から専用線が盲腸線の様に運転している。
 周りに大きな店がありそうな「八幡大橋」駅を出たバスは、いよいよ、立っている事の方が貴重な経験が出来る区間へと向かって行く。それは、BRTが高速道路を「三陸自動車道(三陸道)」を走るのである。日本広しと言えど、高速道路を走るのはここだけ。山交バスや庄内交通の路線バスと同じ形のバスが、時速80キロの区間を、普通の路線バスが故に「時速60キロ」で走るのである。しかも、立ち席が認められているのは、高速道路もどきの「高規格道路」である事からの特例であるのだろう。車内アナウンスでは、三陸道区間では出来る限りの着席を呼び掛ける案内が流れるが、席を譲る気配のない学生達。もっとも、この貴重な経験を逃してなる物かと、つり革を掴みながら、三陸道の走り心地を楽しむ変わった父子であるのだが。
 三陸道を降りて、一般道へ。「唐桑大沢」駅の前後辺りで、南三陸の海を見ながら、宮城県と岩手県の県境を越える。岩手県最初の駅「長部(おさべ)」を過ぎると、陸前高田市の旧市街地が広がる。と言っても、津波で壊滅したために、広大な更地となっているのだが。
 海から離れる様に、左へと高台のある方向に向かう。そこは、震災後に、集団移転した「今泉団地」で、小学校もある様だ。団地内には「陸前今泉」駅がある。「今泉」の響きに、山形県内にある「今泉」駅を思い出した。米坂線・山形鉄道フラワー長井線にある開業100周年を越えた歴史ある駅を。余談だが、もう一つ、山形県内にある「山形」を名乗る駅が岩手県内にある。北三陸の久慈市山形町(旧九戸郡山形村)に、JRバスの駅なのだが、「陸中山形」駅と言う駅がある。
 団地から一般道に戻り、津波で被災した建物が2棟残されているのが見えた。「気仙川」を渡れば、間もなく、待ち合わせ場所の「奇跡の一本松」駅だ。

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  緑色の案内板が高速道の証。

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  宮城から岩手へ。県境を越える頃。

 広い駐車場が見えたら、そこは「道の駅高田松原」。バスは、多くの車が止まる道の駅へ入り、ついに「奇跡の一本松」駅へ到着。バスを降りれば、物書きさんが、カメラを構えながら、父子を迎えてくれた。
 ここで降りたのは、父子二人だけ。観光客も自家用車が多いのだろうし、地元の方々にすれば、あまり日常的に利用しない施設なのかもしれない。バスを降りたすぐ目の前の施設は「東日本大震災津波伝承館いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル」だ。「道の駅」は、その隣。そう、震災で被災した市街地や、約7万本の松と約2kmにわたる砂州の大半が消失した高田松原があった場所を、国、岩手県、陸前高田市が連携して整備し、復興の象徴となる公園とした高田松原津波復興祈念公園に辿り着いたのである。BRTの役割が、地域の生活路線の停留所と言うより、観光客の利便性を図ったのかもしれない。そうでもなければ、訪れる事もなかったかもしれないけれど。

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  奇跡の一本松駅。

 物書きさんに案内されながら、園内を歩く。献花台がある中を、海が望める防潮堤へ。高さは12.5mあるとか。そこからは、三陸の海、いやどこまでも広がる太平洋が。その向こうから、あの時、大きな津波がやって来た。江戸時代より、陸前高田に住む人々は、強風から守ろうと、防風林、防潮林を育て、先人の遺志を受け継ぎ、高田松原を守り育ててきた。津波は、その松原を越えて、街を呑みこんでしまったのだ。公園の広い敷地は、曇り空のせいなのか、あの時を思い返したためなのか、やるせなくも切ない気持ちになったのである。防潮堤から振り返り、あらためて市内の様子を見れば、まだまだ更地が多いが、高台に新しい街が出来ている。ゆっくりでも復興は進んでいる様だ。鉄道線路がない事だけが残念と思うのは、イケナイコトだろうか。
 BRTの駅名になっている「奇跡の一本松」へ。松原は、津波の直撃を受け、ほとんどの木がなぎ倒され壊滅した。しかし、松原の西端近くに立っていた一本の木が津波に耐えて残った。震災が陸前高田市のみならず、広く東日本の太平洋沿岸地域一帯に甚大な被害をもたらした中、この木は震災からの復興への希望を象徴するものとして捉えられ「奇跡の一本松」と呼ばれる様になった。奇跡的に残ったとは言え、海水により深刻なダメージを受けており、根が腐り枯死と確認された。その後、震災からの復興を象徴するモニュメントとして残す事になり、幹を防腐処理し、心棒を入れて補強し、枝葉を複製した物に付け替えたりするなどの保存作業を経て、元の場所に再び立てられたのだ。
 高く聳える松の木、その後ろには二棟の崩壊した建物が、近からず遠からず残されている。ユースホステルと中学校だったそうだ。どちらも、津波で被災した物で、震災遺構として保存されている。自然の強大な力には、しょせん人間の浅知恵では敵わない物だと思いつつ、やはり、命あってこそ。危ないと思ったならば、出来るだけ早く、その場を離れる事、逃げる事が大事なのだと思い知らされた。愚息も、深く何かを感じ得た様だった。

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  防潮堤から高田松原跡を望む。

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  奇跡の一本松と震災遺構。

 公園を後にして、物書きさんの車で、旧市街地、陸前高田駅前へ立ち寄る。駅前は、更地が広がり寂しい限りではあるが、築堤にある駅には、BRTのバスが発着している様子が見えた。駅舎は建て替えられているとか。新しい街づくりの中で、駅前は、どの様に賑わいを取り戻していくのだろう。
 三陸道を通って、バスの所要時間の半分ほどで気仙沼市へ。変わらぬ街並みと被災して 更地となった場所が混在する中、遅くなってしまったが、気仙沼魚市場が隣接する「気仙沼 海の市」で昼食を摂る事にする。ここには来た事があり懐かしい。サメの博物館「シャークミュージアム」が併設されている。
 館内の飲食店には、物書きさんお勧めの店もあったのだが、どの店も混んでいる様だ。2階に昇れば、行列の少ない回転寿司店があった。ここに来てまで回転寿司とためらうものの、地元の名産物であるフカヒレ・カツオ・サンマなど、採れたて新鮮な素材を握ったお寿司が楽しめるとあって、たわいない話をしながら並んで待つ。
 席に案内されて、さて何から舌鼓を打とうか。いつも選んでいるネタも良いが、せっかく三陸は気仙沼に来ているのだからと、地物を味わってみる。オジサン達がゆっくり話をしながら食べている脇で、愚息は、皿をいつの間にか重ねている。タッチパネルで、ちゃっかり注文をしていた様だ。食べ盛りと言うより、美味しい物には目がない食いしん坊なのだ。お喋りも楽しくお腹いっぱいにもなった。
 屋外に、かき氷の移動販売車(キッチンカー)があったのを見つけていたので、愚息は、食後のデザートに食べたいと言う。地元の製氷屋さんのキッチンカーで、気仙沼市鹿折地区にある「荒神湧水」と呼ばれる柔らかい性質の湧き水を使い、ふわふわのかき氷を提供している。気仙沼の素材をメインにしたシロップから、山ぶどう味を選んだ愚息は、これまた美味しそうな笑顔で頬張るのであった。

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  製氷屋さんのキッチンカー。

 ここからさほど遠くない「南気仙沼」駅へ。物書きさん曰く「撮影スポット」らしい。BRTのバスから見た駅舎や専用道とそれへの出入り口周辺の観察をしながら、昔訪れた時とはすっかり様子が変わってしまっている。駅舎は、短い円筒の形をしており異彩を放っている様だ。寂しい無人駅ではあるのだが、舎内の壁には「気仙沼さ きたよー!」と書かれた観光記念撮影パネルが、明るく出迎えている。なるほど、そう言う事なのねと思いながら、父子仲良く並んで撮影してもらう。そして、その傍らに運行情報を知らせるモニターがあるので、むしろ、無人駅としては、こちらが重要なので、しっかり観察。そうこうしているうちに、気仙沼行きのバスが到着する時間なので、列車撮影ならぬバス撮影をする。ここ線路だったんだよなと、真っ直ぐ延びるBRTの専用道を見つめる。ほどなくバスが到着したかと思うと、停まったか停まらなかったかすぐの発車。乗降客がいなかっただけなのだが、「バスの形をした鉄道路線」ではなく「バスそのもの」。
 なんだかんだ言っても、いつもの旅先と同じく、乗った路線を走る車両を撮ったのだ。

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  南気仙沼駅。

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  南気仙沼駅に進入するBRTのバス。

 そろそろ気仙沼駅に行かないと、帰りの列車に間に合わなくなりそうだ。少しずつ新しい街が出来ている中を進み、なんとなく上り坂を行けば古い建屋が並ぶ、懐かしい趣のある界隈。津波の被害を免れた地区だそうだ。ほんの僅かな高低差があっただけで、とてつもない明暗を分けたのかと複雑な心持と、自然災害の少ない山形市に住む小生の災害に対する意識の低さを、あらためて考え直さなければならないと思ったのだ。
 気仙沼駅に戻り、物書きさんとは、ここでお別れとなるのだが、震災から復興をし続ける町を案内して頂いたおかげで、父子共々、新たな気付きや勉強が出来た。

 気仙沼駅から、大船渡線の列車で、一ノ関駅へと向かうために、改札口からホームへ。同線で活躍している100型気動車は、左沢線で活躍している101型のベース車である。違いは、車体色だけでなく、室内が100型はセミクロスシートでトイレ有り、101型はロングシートでトイレ無し。さて、この時間は、大船渡線の列車と気仙沼線BRTのバスが、同時に出発するのだ。このデッドヒートは、どちらが勝つのか。
 出発時間となり、近付き並行しながら列車とバスは走り出す。その先の跨線橋で、物書きさんがカメラを構えて待っている。前面に立ち、今日の感謝とまたの再会に想いを込めて、カメラに向かって手を振る父子なのであった。
 デッドヒートは、気仙沼線BRTの専用道が左へ別れる手前で、バスに逃げ切られた。

 雨が降り出した様で、次第に強くなって来た。やがて、車窓を楽しむ余裕もなさそうな本降りの強い雨が、窓を叩き始めた。降ったり止んだりを繰り返しながら、列車は、3分遅れで一ノ関駅に到着。

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  摺沢駅にて。遅れて来た下り列車。

 雨の駅構内に、盛岡色の701系電車を見ながら、仙台色の701系に乗り換える。大船渡線から東北本線の「ホリデーパス」のエリア内に戻り、小牛田駅で、また乗り換えて仙台駅へ向かう。すっかり暗くなった空、途中駅で開いた扉からは涼しい風が入って来る。まだ日中は暑くても、この時期になると、秋の気配が感じられるものである。
 夜の仙台駅に到着。そして、駅ビル3階にある仙台名物牛たんの専門店が並ぶ「牛たん通り」へ。相変わらず、どの店には行列が出来ているが、混む時間が過ぎたのか行列は短い。愚息お気に入りのいつもの店の前に並び、それほど待たずに席に案内された。何を注文しようかと迷うのも楽しい。ゆっくり美味しく頂いた。美味しく頂いたと言えば、小生はビールで、愚息はコーラで、旅の疲れを炭酸の爽快感で、のどに流し込む。愚息も来年にはまさかの成人(18歳)となるのだが、お酒は二十歳になってからである。お酒を一緒に飲めるのは、もうしばらくお預けだ。その頃には、もしかしたならば、一人で出掛けるなんて言うのかもしれないが、その日が来るまで、もう少し一緒に旅が続けられればと思っている。
 仙山線のホームへ向かう途中に、震災から全線での運転再開した常磐線の特急「ひたち」号を見つけた。震災の記憶と復興への想いを忘れない様にして、山形への帰路に着いた。

   在りし日の気仙沼線(鉄道線)
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 不動の沢−南気仙沼間(平成11年11月21日撮影)

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  大谷海岸駅(平成14年5月3日撮影)

 鉄道友の会山形支部・支部報 気動車急行「出羽」令和4年秋号 より:都合により、写真の一部差し替えと加筆をしています。


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2022年06月11日

アルバムを紐解いて

 早い物で、今年は、山形新幹線開業30周年を迎える。なんとなく、我が家にある怪しいコレクションを整理しながら、山形新幹線関連の物を手に取り眺めては、あの頃の期待と夢があふれていた山形県の熱い想いが懐かしさと共に蘇って来てしまっている。開業に向けての様子を撮影していた写真から、いくつかご覧頂きたい。
 特に、撮影データを表記せず、試運転から開業間もなくの400系(登場時の塗色)の写真を掲載しました。

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