2016年12月06日

またひとつ

 地域の玄関口である鉄道の駅。 国鉄時代の、そして、昭和の時代の面影を残す駅舎は、老朽化の名のもとに、いつの間にか消えゆきて、建て替えられた駅舎は、新しい時代の象徴として歩み始めるのであった。
 奥羽本線・北山形駅の東口駅舎(山形市宮町・1番線側)の建て替えが進められていたのだが、11月26日の始発列車から供用を開始した。
 東口の新しい駅舎は鉄骨1階建てで、延床面積は約160u。「ジャパニーズ・モダン」をコンセプトに、外観の色調は近くに位置する「鳥海月山両所宮」をイメージした。待合室には、昭和初期の山形駅の駅舎をイメージした連続縦長窓を設けた。
 コンコースには天井を設けず、開放性の高い空間を目指した。待合室のベンチなどには杉を使用し、木の温もりを感じとれる様にしたというが、少々、狭くなったように感じるのは、小生だけなのだろうか。
 同駅は、奥羽本線と左沢線の分岐駅で、西口にも駅舎が設けられていて、左沢線開業当時(同駅開業当時)の駅舎は、平成26年6月、すでに、新しい駅舎に建て替えられている。
 人々が行き交う駅。新しくなったこの駅舎で、どんな物語が生まれるのだろうか。親しまれる駅であって欲しいものである。
 
 ま、何はともあれ、いつもと変わる事なく、駅を行き交う人々を見守り続け、列車の安全を支え続けて『本日も異常なし。』であります様に。
 
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   新しくなった「北山形駅(東口駅舎)」

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   1番線に入線する719系5000番台。

  
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2016年10月21日

今日は一緒にハッピーバースデー・そして

 たくさんいる中で、同じ趣味の方が居れば、つい意気投合しては、活動にも力が入るもの。それが誕生日だったりすれば、何かしら運命を感じる(?)かもしれない。そう思う一日の10月21日、開業年は違えども、各路線において延伸開業した区間がある喜ばしい日なのである。

 奥羽本線(南線)では、明治34(1901)年に、8月23日に開業していた「楯岡(現・村山)」駅から北進して敷設され、同年のこの日に「大石田」駅までが延伸開業した。そして約2年の歳月を掛け、「新庄」駅へと延伸。同線は秋田県側の「湯沢」駅へと建設は進み行く中、同37(1904)年のこの日には、山形県から秋田県へと県境を越えて、「院内」駅まで開業したのである。

 その「院内」と日本海側に位置する「本荘」を「矢島」を経て結ぶ計画が、大正11(1922)年に施行された「改正鉄道敷設法」の予定線としてあったのだ。その一部としての路線・矢島線(羽後本荘ー羽後矢島間)が、「由利高原鉄道」として現在は運転されている。
 大正5(1916)年、秋田県の横手と本荘を結ぶ目的で「横荘鉄道」が設立され、東西から建設が始まった。昭和5(1930)年には「老方ー前郷」間を残すのみとなったが、以後の工事は中止となり、同12(1937)年9月1日には「羽後本荘ー前郷」(横荘西線)間が政府に買収された。この買収(国有化)が、「矢島線」のスタートになり、延伸工事を進め、翌13(1938)年10月21日に「西滝沢ー羽後矢島」間まで延伸開業されている。しかし、その後の「院内」への延伸工事が行われないまま、鳥海山の麓を走る盲腸線として営業するも、「第一次特定地方交通線」に指定されてしまい廃止も危ぶまれたのだが、昭和60(1985)年10月1日に、第三セクター「由利高原鉄道」として新たに走り始め、早いもので31年の歳月を歩み続けている。
 一方、「横荘鉄道(後の羽後交通横荘線)」は、延伸工事を行う事なく、昭和46(1971)年7月16日に廃止されている。
 時代の潮流により、路線にとっての明暗が左右されるのは、鉄道は生き物であると言う事なのだろうか。

  ま、何はともあれ、いつもと変わる事なく、駅を行き交う人々を見守り続け、列車の安全を支え続けて『本日も異常なし。』であります様に。
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2016年07月18日

ちょっと早めのハッピーバースデー


 大切な日が、忙しい平日になっている場合、直前の休日等で、家族が揃う日を選びつつ、ゆっくりお祝いをする事もあるかと思う。
 休日とて、盛大にしないでも、あの時を思い、これからを望みながら宴をするのが良いのかもしれない。

 さて、来る7月20日は、県都・山形市から北西へと田園の中を走る左沢線の「北山形」「羽前山辺」「羽前長崎」の各駅が、開業した日である。
 奥羽本線・山形駅を起点とし、同線は、大正10(1921)年7月23日に「羽前長崎」駅まで、「左沢軽便線」として開通しているのだが、駅と路線の開業(開通)日が異なるのには、些か、疑問が残るのであるが、小生の手元資料には、その経緯が記されているものが皆無なのである。

 それはさて置き・・・。
 山形駅から北へと建設された「左沢軽便線」は、しばらく奥羽本線と並行(新庄方左手側)に敷かれ、「宮町踏切」付近から北西に分岐してすぐ、最初の停車駅「北山形」駅が設けられた。今でこそ同駅の駅本屋は、線路東(宮町・奥羽本線)側にあり、そちらから附番されているが、開駅当初は、「左沢軽便線」の駅として開業したため、もちろん線路西(下条)側に駅本屋が設けられた。
 ちなみに、当時の奥羽本線下り方面・山形駅の次駅は「漆山」駅であった。その後、同線の停車駅に加わるのだが、大正14(1925)年の時刻表においては、まだ左沢線のみの駅であった。

 分岐駅となった「北山形」駅なのに、左沢線ホームにあるキロポストには「2」と表記されている。ご存知の方も多数いられるかと思うが、それは、国鉄時代の名残をそのままにして、時の移り変わりを見つめているかの様だ。そもそも、山形ー北山形駅間は、単線並列区間として、ちょうど最上地区の「新庄ー南新庄」間の様な感じであったのだが、沿線利用者(宮町辺り)の便と列車増発などにより、駅舎新設と何時しか並走区間の共用を開始したのである。そのため、同一区間が二つの路線に存在するという「二重戸籍」が生じてしまい、国鉄末期頃まで続き、解消された際に、同線の起点を「北山形」駅と改めたのであった。

 ふと気づけば、奥羽本線の標準軌化と奥羽・左沢線両列車の並走(続行)運転を見るにつけ、歴史が、形は違えども、繰り返されているのではないかと思えてしまうのである。その所為もあるのか、時折見られる新幹線とSLの並走に、心擽らせるお年頃の小生でもある。

 「北山形」駅には、もう一路線の分岐が計画されていたのである。現在の「仙山線」にあたる東側に延びる路線が、同駅から、宮町〜鈴川町(当時:鈴川村)を経由し山寺へ、そして、仙台へと計画されていた。青写真も出来ていて、線路敷設用地(土地買収予定地)もしっかり把握されていたそうだが、結果として「羽前千歳」駅から分岐する現在の経路で敷設開業したのだが、宮町鈴川ルートだったならば、沿線となる町内はもちろん、今の山形市の発展が、幾らか違っていた事であろう。

 ま、何はともあれ、いつもと変わる事なく、駅を行き交う人々を見守り続け、列車の安全を支え続けて『本日も異常なし。』であります様に。
 
 

 
 
 


 
タグ:記念日
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2016年06月12日

今日は一緒にハッピーバースデー

 家族や友人知人との間で、生まれ月が同じだと言う場合、何処も、一緒に誕生会を催す事が多々あるかと思う。
 大切な記念日を忘れないで胸を張れるかと思っていたところに、やはり、忘れかけていた事が・・・。
これはいけないと言う事で、一緒に記す事にしたのである。

 それは、最上地区にある鉄道の要衝である奥羽本線「新庄」駅と、庄内地区で、歴史の古い町にある陸羽西線「清川」駅の二駅。


 まずは「新庄」駅。今でこそ山形新幹線の北のターミナル駅として、全国新幹線網の一つに数えられるようになったが、その開業は、明治36(1903)年6月11日に、奥羽南線の途中駅として開業したのである。鉄道の要衝、それは、地図をご覧になれば、線路が四方から交差しているのがお解りだろう。奥羽本(南)線の延伸に伴い設置され、のちに、日本海側へと建設された酒田線(のちの、陸羽西線及び羽越本線)の起点駅となり、最上地区や日本海側からの人々や荷物を送り出し、山形や東京とを結ぶ拠点駅となるのである。また、宮城県女川からの石巻線、小牛田から鳴子を経て建設された陸羽東線(建設当初は、新庄線)の終点駅となり、太平洋側とも鉄道で結ばれた。東北新幹線開業以前は、北(西)東北や山形県南・仙台、そして、上野へと向かう様々な行先の急行列車が、分割・併合を行いながら、行き交う人々と共に、賑わいを見せてくれていた。
 最上地区は、豪雪地帯でもあるので、その除雪作業に必要なラッセルやロータリー等の除雪車が、隣接する新庄機関区に配属されていた。近年まで活躍していた「DD14型ディゼルー機関車」の姿を思い返しているかと思うが、その他にも、冬季以外にも稼働していた車両(ディ−ゼル機関車)がいた。入換用として「DD16型」や「DE15型」、本線用として「DD53型」の各形式である。「DE15型」以外は、馴染みが薄いかもしれないのは、あまり稼働しないまま、国鉄末期には休車扱いとなり、陽の当たらない場所に置かれてしまっていたからなのかもしれない。その中の「DD53型(1号機)」であるが、分割民営化を前に、廃車となるものの、群馬県の高崎運転所にて長らく保管された後、「碓氷峠鉄道文化むら」に静態保存されている。

 次に「清川」駅。新庄から最上川に沿い酒田へと。途中駅として、大正3(1914)年6月4日に開業した。そもそも、明治25(1892)年の「鉄道施設法」では、現在の石巻・陸羽東西線に該当する東北横断線が予定線として浮上したが、小牛田ー酒田間が一期線に編入されたのは明治43(1910)年の事である。当初、同区間は「新庄線」の名称で着工され、そのうち新庄ー酒田間は「酒田線」として開業、大正3年12月24日に全通したのである。
 さて、当駅のある庄内町清川は、最上川に育まれた人情細やかな土地柄でもある様だ。内陸地方への入り口として、また、遠く奈良時代にはすでに繁栄していたと言い、最上川の水駅として発達した宿場でもあった歴史の古い町である。源義経が弁慶を伴って、京から平泉に逃れて来た時、一泊したと伝えられているし、幕末の折、その時代を動かしたと言っても過言ではないであろう清河八郎は、ここ(当時は、清川村)の生まれである。清河の本名(幼名)は、「斉藤元司(もとじ)」と言い、天保元(1830)年に、裕福な郷士の家に生まれている。文武の道に優れ、江戸に遊学に出た八郎は、書や剣を学び、25歳で、文武両道の塾を開き、何時しか、尊王攘夷の志を固める。そして、将軍の上洛のために集められた「浪士組」の結成に携わり、のちの「新選組」メンバーを世に送り出す事になるが、その目的が尊皇攘夷にあると論じたため、幕府を裏切ったとして暗殺され、34歳で生涯を閉じた。
 鉄道談義もそうだが、この手の話(幕末期とくに新選組)をすると、尽きなくなりそうな小生なので、ほどほどにしなくてはならない様だ。

 ま、何はともあれ、いつもと変わる事なく、駅を行き交う人々を見守り続け、列車の安全を支え続けて『本日も異常なし。』であります様に。

 
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2016年05月17日

一日遅れのハッピーバースデー・3

  
忘れているわけもないのだけれど・・・。
 
 昨日、もとい、一昨日の事になるのだが、我が故郷の南の玄関口となる奥羽本線(山形新幹線)の米沢駅が、開業記念日を迎えたのであった。板谷峠を越えて敷かれた同線の各駅と共に、地形との闘いとも言える難工事の末、明治32(1899)年5月15日に開業したのである。

 東北地方を東西に隔て聳える奥羽山脈。その東側には日本鉄道(のちの東北本線。現:JR東北本線及びIGRいわて銀河鉄道・青い森鉄道)が開通していたが、それを福島から分岐させ、西側の各県を通過し、同線の北端・青森で合流、東北地方の循環線としての使命を果たす様になっていた事、また、同線が尻内(現・八戸)以北で海岸を通る事を懸念した大日本帝国陸軍にとって、本州北部の安全な縦貫幹線としての使命を果たすとも考えられた事、こうした使命が、主に奥羽本線には期待されていた。
 東北本線の補助幹線の様な意味合いを持つ様に見えるが、弘前の第8師団や各地の隷下である連隊の配置(歩兵32連隊「日露戦争後、秋田から山形に転営」も、その一つ)を見ると、この路線が軍事輸送上重要な幹線とみなされた事が解る。しかも、陸軍は、大量輸送を考慮し、軌間を標準軌とするよう求めたが、先に開業していた日本鉄道との連絡輸送をした場合、乗り換えや積み替えなどの不便が生じる事から、軌間を狭軌(在来線幅)に合わせた。
 軍事的役割を期待し建設されたとは言え、沿線となる山形県・秋田県・青森県西部を、他の地域と結ぶ役割は大きい。その意味で、幹線である事には間違いないし、東京との結びつきも重要視されていた。

 福島―米沢間は、自ずと知れた鉄道の難所・板谷峠を有する。峠駅(標高622m)を頂点とし、19のトンネルと20の橋梁を設けて、最大勾配を33.3‰(一部38‰)で建設された。何とか粘着運転の範囲内ではあるが、幹線としての急勾配の上限(25‰)を越え、連続する4つのスイッチバック停車場、半径302mの急曲線は、この区間の輸送力を極めて小さいものに制限していた。信越本線・横川ー軽井沢間(現:廃止)の碓氷峠に次ぐこの難所は、その後、輸送力増強のために、複線化に始まる線路改良や、強力な急勾配専用の蒸気機関車(4100型・4110型・E10型)の導入、直流電化そして交流電化へと、動力の改良も続けられた。時は流れ、まさかの標準軌に改められて、山形新幹線が運転されている今も、難所として立ちはだかり、新幹線(特急)とは名ばかりのゆっくりした車窓から、迫り来る山間の景色の中に、時折、先人達の努力と苦労の跡が見えるのである。このゆっくりした速度が、早くて快適な新幹線の旅に慣れた人々に対して、日本の原風景とも言える風景へと、旅情を誘っているのかもしれない。

 強力な急勾配用の蒸気機関車の話は、また別の機会にでも記したいと思っているが、期待しないでいてもらいたい。

 ま、何はともあれ、いつもと変わる事なく、駅を行き交う人々を見守り続け、列車の安全を支え続けて『本日も異常なし。』であります様に。
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posted by 管理人:錯乱坊 at 20:08| Comment(0) | 鉄道徒然草